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エジンバラ/ラッセルコレクション(9/13)
待ち時間を楽しむ(7/3)
サン・トゥスタッシュ教会(4/25)
春のパリ(2019/3/6)
間違いだけど笑っちゃう(11/6)
W杯2018(7/12)
マレ地区(6/28)
セーヌ川の増水(3/1)
エコな生活(1/16)
セーヌ右岸の遊歩道(11/9)
トゥールーズ(8/15)
ルイ14世とドビュッシー(5/1)
バーゼル(12/19)
バゲット・コンクール(11/1)
パリ・秋のコンサート(9/29)
街を歩くと・・(8/31)
ニコラウ・デ・フィゲイレド(7/8)
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ブリュージュとパリ(2/10)
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ジワジワと春が・・・(5/22)
バッハ、バッハ、バッハ!(4/8)
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グスターフ伯父さん(3/3)
パリのバレンタイン(2/14)
お雑煮(2014.1/7)
某デパートの食品売り場(12/2)
ある小雨降る日の出来事(11/7)
パリ・今季のバロック・コンサート(10/16)
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命日が続く二人の作曲家(9/9)
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たかが「チョコ」、されど「チョコ」(7/16)
マルシェ(7/9)
音楽の祭典(6/26)

東京のコンサート(6/4)
ゲント(5/28)
レオンハルト氏と彼の楽器(5/15)

三和睦子 Mutsuko Miwa

 兵庫県出身のチェンバリスト。現在はパリと日本を行き来している。

  
三和睦子のパリ便り Lettres de Paris  Mutsuko Miwa
~ チェンバロ奏者のあんなこと・こんなこと

 
 
長いベルギー時代、パリ在住期間を経て、
 日本とパリを行き来するチェンバリストが、
 海外と日本の違いや、日々の思いを綴ります。





2019年12月24日(火)
2019

 今年は皆様にとって、どんな1年でしたでしょうか。

 パリも色々なことがありました。そんな1年を、私の視点で振り返ってみたいと思います。

  まず、真っ先に上がるのはノートルダムの火災ではないでしょうか。まだ修復が進まず、今年のクリスマスミサは行われないそうです。テロがあった時も世界中の人々を受け入れてミサを行ったノートルダムですから、パリ市民の落胆は大きかったと思います。 

 2月には、ファッション界の重鎮だった「カール・ラガーフェルド」が亡くなりました。ファッションデザイナーであっただけでなく、写真家であり、様々なファッション・アートのプロジェクトで業績を残しました。彼に関するニュースはその死とともに、数ヶ月間も雑誌やテレビを賑わせました。亡くなった直後、どこの教会で葬儀が執り行われるのか、どれほど大きな葬儀になるのか、市民の間で憶測が飛び交いましたが、それらはあっけなく裏切られることとなりました。彼の葬儀は、彼の希望に従い密葬で、彼がデザイナーを務めたシャネルの店も休むことはありませんでした。

    店の中には、白い花々で飾られた部屋がありましたが、そこには彼の写真はなく、店の外に人々が置いた花束も「通行の邪魔にならないよう」という店側の配慮で、ごく少数の花束しか見られませんでした。世界中で彼を悼む大きな催しがあったようですが、地元のパリは静かで、彼の去り際の見事さに、私は強い印象を受けました。
 





 今「パリの社会情勢」と聞くと、多くの人が「ストライキ・デモ」を思い浮かべると思います。フランス人はすぐにストやデモをします。それは日常的なもので、教育機関のデモの時は子供まで参加しました。親と一緒にデモに行く子供を見ると「この子たちは高齢になって車椅子に座るまでデモに行くのかなあ」と思ってしまいます。インターネットを開けると「ストライキ・デモ」というサイトがあり「月・火・水・・・」と一週間の曜日とともにストとデモが行われる時間と場所が出てきます。参加したい人は、これをチェックして出かけます。





 最後は街の中の一コマからお届けします。おしゃれな人が多い街中ですが、時々「このまとめ髪に見る代物は・・」と沈黙することがあります。そう、この写真の女性の髪に刺さっているのは「箸」です。2本あるのでちょうど良いのかもしれませんが、これが箸でなく鉛筆だったり色鉛筆だったりもします。綺麗な女性の友人と話をして「じゃあね」と、去っていく後ろ髪に色鉛筆が2本刺さっているのを見ると、頭の中が真っ白になります。

 

   
 こちらは、今からヴァカンスに出る女性に連れられたニャンコです。地下鉄の中で嬉しそうに周りの人に愛想を振りまいていました。旅や人に慣れてるのか「犬のよう」な猫でした。


  それでは、来年が皆様にとって素晴らしい年になりますように
  お祈りしています。


 

2019年9月13日(金)
エジンバラ/ラッセルコレクション

       

  夏の終わりに、コートが必要なくらい寒いエジンバラに行って、楽器博物館が所有するオリジナル鍵盤楽器の世界的コレクション「レイモンド・ラッセルコレクション」の楽器を弾かせて頂きました。博物館は思ったより小さいですが、フロアに置かれているのは全てオリジナル鍵盤楽器で、建物内に保管しているものだけで600台ほどあるそうです。その中から30台ほどが展示されていました。音はどれも素晴らしく、メンテナンスも、すぐにコンサートで使えるほどによく仕上がっていました。



   エジンバラの街は大変に美しく世界遺産になっています。ケルト文化を基盤にして、魔女狩りなどのディープな歴史に影響されたためか、数々の物語が生み出されてきました。J.K.ローリングが「ハリーポッター」の第1巻を執筆した街であり、推理小説の元祖「シャーロック・ホームズ」を書いたコナン・ドイルの出生地でもあります。「ジキルとハイド」のモデルになったW・ブロディー氏も18世紀にこの街に実在していました。

   この街に来たら、是非行ってみたいツアーがありました。それは「地下都市ツアー」です。今は美しいエジンバラですが、過去には残酷な歴史がありました。18世紀、人口が増加したこの街では、お城のある高台の近くに上流階級が住み、その坂の下に貧しい人々、そして、最も貧しい人たちは住む場所も家もなく、地下に作られた小さな街に住んでいました。下水処理設備が整っていない時代です。坂の上から流される汚水が地下に入り、地下で暮らす人々の間で疫病が流行ると、蔓延を恐れた役所は地下の入り口を閉じてしまいました。あまりに非道なこの話は公には語られず、地下都市の存在も忘れられていましたが、1980年代になって調査・発掘が始まり、それは現在も続いています。話のショッキングさからか、多くの人が地下に幽霊が出ると信じていて、ツアーには「地下都市ツアー」と「幽霊話つき地下都市ツアー」がありました。どちらにするかギリギリまで悩みましたが、今回はシンプルな「地下都市ツアー」を選びました。 

  ちょっとスコットランド訛りのあるガイドさんについて地下に降りていくと、地上の音が全く聞こえなくなりました。「音のない世界」を経験したことがない私にはそれだけでも異次元体験なのに、当時の様子を再現するためにと、地下の照明は電気ではなくロウソクでした。ユラユラ揺れるロウソクの光と、生々しいガイドさんの話で、地下を巡る45分間はもう十分に恐怖体験で、地上に出た時は「現代に生まれてよかった」と思い、「幽霊ツアー」の方に参加しなかったことを心からよかったと思いました。 

  ツアーの後にふらっと入った「タロット屋」では、店のおばさんから「ネス湖のネッシー」を今も信じているという話を聞きました。パリで聞いたら笑っちゃう話も、ここエジンバラで聞くとしっくり来るから不思議です。別の店で「妖精に出会う本」というのを見つけました。「魔法の杖」という綺麗な装飾のある「杖」を売っている店もありました。数日間の滞在でしたが、妖精やネッシーを信じている人々がいるエジンバラを好きになりました。地下都市も悲しい「裏の歴史」ですが、見ることができてよかったと思いました。



2019年7月3日(火)
待ち時間を楽しむ

 日常の中の「待ち時間」、皆様はどう過ごされるでしょうか? 「スマホで時間つぶし」が一般的だと思いますが、ヨーロッパのとある国には「スマホ禁止村」というのもあるくらい、世の中に流されず、我が道を行く頑固者が多い大陸の人々です。というわけで、今日はフランスで見かけた独特の「待ち時間を楽しんでもらう」サービスをご紹介します。 

 以前からあったのは「駅に置かれたピアノ」です。あい変わらず大活躍していて、ピアノが弾ける人が多いのに感心します。パリ市の駅に置かれているのはアップライトですが、地方に行くとグランドピアノも置かれていて、驚きます。

 
 最近登場したのは、ピアノのそばに置かれたこの「読書自販機」です(写真左)。
 これは「1・3・5」と数字が書かれていて「1」を押すと、レシートのようなものが出て来て「1分で読める物語」、3は「3分で読めるもの」、5は「5分で読める」ことを意味します。 (写真右の物語が書いてある紙。左が1分、右が3分)。物語は一般から募集して審査に合格したもので、約10万本あると言われています。 駅によっては、椅子に座ると、頭上から(その人だけに)音楽が流れてくる「癒し系椅子」もあります。


 

  
 私がフランスの空港でとても楽しみにしているもののひとつに「マダム」という女性雑誌があります(写真左)。内容は「旅」をテーマにしていて、かなり僻地(でも素晴らしく美しい場所)が紹介されているほか、旅に持参するべき化粧品や癒しグッズ(聞いたことがないブランドが中心です)などが取り上げられています。大手ブランドメーカーの宣伝に左右されない、個人のファッション観を大切にするフランス女性ならではの心意気を感じます。記事は英語とフランス語の2カ国語で書かれているので、語学を勉強中の方にはうってつけです。その上、120ページほどにも及ぶ雑誌でありながら、太っ腹にも「無料」です。フランスの空港に寄られたら、ぜひ手に取ってみてください。旅に出たくなること必至です。

 

  駅から街に入り、世界的に有名なデパート「ギャラリー・ラファイエット」に行くと、3階の婦人服売り場から変なものが突き出ています(写真右)。 まるで飛び込み台のようですが、床がガラス張りで見下ろすことができます。建物は吹き抜けで、この場所はかなりの高さです。「この服を買うかどうか、頭をリセットしてから考える」ための高さなのか、「清水の舞台から飛び降りるつもりで購入しよう」という策略なのか、解釈はいろいろですが、買い物の最中に最高のリフレッシュができる場所です。


 そして、同じ婦人服売り場には、ゲームに興じる親子がいました(写真右)。多分、ご主人と息子たちが母親の買い物中、苛立つことがないように設置されたものだと推測します。なかなか賢い方法だと感心しました。買い物をした奥様に「長い時間待たせて、またそんなものを買ったのか」などと喧嘩になるカップルも減るし、女性の方も「待たせてる」ストレスがありません。


  こちらは「待ち時間を楽しむ」グッズではありませんが、心に残った空港なのでご紹介したいと思います。フランス南西部にあるトゥールーズの空港で、ゲートに向かう通路の壁に延々と、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団のメンバーの写真が飾ってありました(写真右)。一枚の写真にオーケストラメンバー全員がおさまるのではなく、2、3人ずつ写ったものです。指揮者の写真は、その写真群の真ん中あたりに飾ってありました。事務スタッフの写真もあります。私は写真が街の中ではなく、他都市の人々が行き交う空港に飾ってあることに感動して、街の人々の音楽への愛情を感じました。写真に写っている奏者は皆誇らしげな顔をしていて、それらを見ながら旅行者は「次にこの街に来るときは、このオーケストラを聴こう」と思うのではないか、と思いました。

 

  

2019年4月25日(木)
サン・トゥスタッシュ教会

ノートルダムで火災が起きた時、私はパリにいませんでした。夜中にパリの友人たちからメールが届いて知りました。

彼らのメールには、その日のパリの様子や、ノートルダムがどれほど自分たちの心の拠り所であったかなどが切々と書かれていて、行間からは悲しさが溢れていました。

私は昼間よりも夜のノートルダムが好きでした。日が暮れてから、友人と散歩をしながらノートルダムのそばを通ると、照明に浮き上がる彫刻の美しさ、その聖堂の雄大な姿に圧倒されました。それらを見事に浮かび上がらせる、ヨーロッパの間接照明の使い方にも感嘆しました。


サン・トゥタッシュ教会

フランスの宗教の70%はキリスト教だと言われています。パリ20区内にはカトリック教会だけでも113あります。世界に名の知れた教会は、ノートルダム大聖堂、サクレクール寺院などがありますが、今日ご紹介するのは市庁舎の近くにあります「サン・トゥスタッシュ教会」です。この教会は「ノートルダム寺院のように美しい教会を建てたい」という思いで、1532年に建設が始まり1637年に完成しました。105年もの年月を費やしたため「ゴシック様式の構造にルネッサンス様式の装飾」が混じりパリの時代を感じさせます。 





この教会はフランス革命が起こる17世紀まで、王室の教会として利用されていたため、教会は王室とともに歴史を刻んできました。ルイ14世の初聖体、宰相リシュリュー、モリエール、ポンパドール夫人らの洗礼式。1662年には作曲家のリュリがM.ランベールの娘、マドレーヌとこの教会で結婚式をあげました。教会のオルガンは約8000本のパイプを持ち、ノートルダム寺院(8000)、シュルピス教会(7500)と並ぶフランス最大級のオルガンです。多くの音楽家がここでコンサートを行い、ベルリオーズの「テ・デウム」の初演を始め、モーツァルト、フランク、リストらの名前も見ることができます。

 














この教会には「聖チェチーリア」(音楽の守護聖人)をまつる一角があり、その聖チェチーリアの左右に、二人の名が刻まれた銘板を見ることができます。一人は、フランスバロックを代表する作曲家「J.Ph.ラモー」、もう一人は、モーツァルトの母「アンナ・マリア・モーツァルト」です。ラモーは亡くなる数日前にここでオルガンを弾き、それは感動的な演奏だったと伝えられています。彼は1764912日に亡くなりこの教会に埋葬されました。アンナ・マリアは、1778年に息子のパリでのコンサートに同行しますが熱病のためこの地で亡くなり、葬儀が行われた後に埋葬されました。1785年に同教会の墓地が撤去されて遺骨が別の場所に移されたため墓は現存していませんが、現在、銘板が残されています。

 


この美しい教会も1840年に火災に遭い、後に修復されました。ノートルダムも、またいつかその美しい姿を見ることができる日が来ると信じています。そして、後世、ノートルダムを訪れた人々が「2019年火災に遭い修復」という一節を教会史の中に見つける日が来るでしょう。ノートルダムもサン・トゥスタッシュもパリで人々と共にあり続けます。歴史の流れは雄大です。

 

2019年3月6日(水)
春のパリ

  数週間前までは曇り空と寒さに震えるパリでしたが、先々週から急に暖かくなり、お日様が顔を出す日が続いています。

 暖かくなると、すぐにお目見えするのが「アイスクリーム屋台」(写真右)

 橋の上では、ミュージシャンたちが
歌いまくり(写真下)、
 人々も春の気配に笑顔があふれます。



  車の排気ガス問題があるパリでは、出来るだけ交通機関に頼らずに移動できる「Velib(ヴェリブ)」という自転車レンタルシステムがあります。街中に1700以上のステーションがあり、自動支払機で手続きした後、自転車をピックアップし、乗った後は近場のステーションに返すだけです。このvelibが成功した後、電動自動車、電動スクーターと続き、とうとう「電動キックボードLime S」がお目見えしました(写真右)。 「これは楽しそう!」と早速、ステーションを回りましたが、人気が高いらしく、どこのステーションのLimeSも出払っていて残っていませんでした。

 

  それにしても、暖かくなって街に人が溢れてくると、いろいろな人を見かけます。車道の真ん中あたりを歩いている人たちを見かけたので「パリにも歩行者天国ができたか」と思いましたが、そうではなく、ただ単に「信号が赤で車が来ないから、真ん中を歩きたい」と思っているようです(写真左)。しかし、電動自動車は後ろから近付いても音が静かなので、気をつけたほうがいいと思います。大胆なのは人々だけではありません。









こちらのホームレスの人を見かけたときは「死んでる?
」とビビりましたが、よく見ると側に「紙コップ」(よかったら小銭を入れていってね、という意味)が置いてあったので生きてることがわかりました(写真左)多分地下道からの通風孔があり、その上に横たわると暖かいのだと思いますが、通風はいたるところにあるのに、何も横断歩道の先で寝なくてもいいと思います。しかし横断歩道を渡る人々は全く気にする様子はありませんでした。

 

 そういえば、友人が先日メトロで見かけた人の話をしていました。ただでさえ空気の悪いメトロに、マスクをせずに咳をする人と一緒に乗るのは、きれい好きな日本人には耐えられないことです。しかし、フランス人にも耐えられない人がいたらしく、その人はメトロに乗ってくると、まず目の前にあるパイプに除菌スプレーをして、それをティッシュで拭いてから、そのパイプをつかんだそうです。除菌スプレーをしたい気持ちは120%理解できます。でも、それを行動に移すかどうかは別問題です。 

  個性の豊かな人々が集まる街です。。街を歩いて、人々を見ていると飽きることがありません。。

 

2018年11月6日(火)
間違いだけど笑っちゃう

  外国の街を歩いていると、間違った、でも思わずクスッと笑っちゃう日本語に出くわすことがあります。
  今日は、そのような写真を集めてみました。
 

  まず、チョコの本場ベルギーから。。


(写真左)とあるチョコレート屋さんですが、
「チョコレート」と書こうとしたけど、
寸法が足らなかったようです。。














 

(写真右)「高級喫茶室」のネーミングは、なかなか日本では見かけなくなって来ました。

  レトロっぽくて思わず「入っちゃおうかな」と思いますが、下段の「ベルギー・フランス料理」の意味がいまいちわからず、「ベルギー流フランス料理」かと解釈しますが、最後に書かれた「Gesloten op dindagで、入るのを躊躇します。「休日は・・」という意味のフラマン語ですが、「dindag」という単語はなくて、dinsdag(火曜日)」の間違いかと思います。フラマン語の聖地であるブリュージュで、堂々と間違った看板を掲げるなんて ’’あっぱれ!’’ ですが、やばくて入れません。

 



(写真左)こちらは、ラテン気質な南米。とある街の日本食レストランのメニューです。

  素敵な日本食レストランのテーブルにつき、ウェイターからメニューを受け取り、開いた先に見えたこの単語。

「まぐろ・鮭・鯛」そして「金魚にエ”」。。「エ”」は「エビ」のことです・・ね? 



そして、次の欄(写真左)、

「鉄板焼き」ですが、「牛サーロイン」の後は、もう何が何だかわかりません。PCの「翻訳」にかけたのが丸わかりです。

想像で理解できたのは、最後の「チン胸肉」。チキンのことでしょう。




 

(写真右)南米からの帰りの空港では、最近流行りの「回転寿司」のメニューに「カツ」と書かれたエビフライがありました。「金魚やチン胸肉」の後では怯みません。思わず「カツください」と注文しました。

 

  私がこのブログを書くように、日本に旅行に来た外国の方の中にも、間違ってるけどクスッと笑える外国語の看板やメニューを見た人がいると思います。
  旅は楽しいです。

 

 

 

2018年7月12日(木)
W杯2018

   15日に行われるW杯の決勝を前に、巷では「優勝国予想」の話題で盛り上がっているのではないでしょうか。

  パリは多国籍な街なので、街のあらゆるところで、応援のために窓にかけられた国旗を見ることができます。

  こちらは左が「チェニジア」その隣人は「フランス」です(左の写真)。この日は「ベルギー対チェニジア」の試合でしたが、夕方、このアパートの前を通ると、チェニジアの国旗が窓から外されていたので「負けたな」と思いました。


    こちらはベルギーです。思いを込めて「ベルギー」と書かれた国旗で応援していました(写真 右)
 

  昨日行われた「フランス対ベルギー戦」。両国に縁がある私は、どちらの国を応援していいかわからず複雑な思いでした。そして、敗戦した方の国について、このブログを書こうと決めていました。 


  W杯の期間は色々な応援グッズが街に登場します。ブリュッセルにある、とあるチョコレート本店の店先には、チョコで出来たサッカーボールがベルギーの3色旗の色で並んでいます(左の写真)

  サイズは「原寸大」です。もし決勝に進出したらこのバカでかいボールを買って食べるのか、はたまた負けたらやけ食いで買うのかわかりませんが、なんとも存在感のあるチョコ3個でした。 

 世界中が、それぞれのスタイルでテレビにかじりついて応援していると思いますが、ベルギーの応援スタイルは「カフェでベルギービールを飲みながら、皆で盛り上がる」そして「中世の建物が残る国」らしく、ブリュッセルにある世界遺産「グランプラス」(写真右。拡大できます)に設置される「巨大スクリーン」を見ながら観戦する人たちもいます。この時は、逆三角形(フリッツと呼ばれるフライドポテトを入れる三角形の紙の袋を逆にした形)の帽子をかぶり、本物のフリッツが入った三角形の紙袋を持ちます。カロリーを気にしない人は、10種類以上もあるソースの中から好きなものを選び、たっぷりとフリッツの上にかけます。ちなみにベルギー人の好きなソース第1位は「マヨネーズ」です。そして、もう一方の手には、もちろんベルギービールです。日本戦の時は「打倒日本」とばかりに「サムライソース」という辛めのソースをかけたフリッツを食べながら応援したベルギー人が沢山いただろうと、テレビを見ながら想像していました。

 世界が「同じ時刻に、同じことに注目する」ということはなかなか無いことだと思います。現地のロシアでは15日の18時に、ヨーロッパでは同日の17時、日本は16日の夜中0時、南米に来ている私は朝の11時に「決勝」を観戦します。

 私は「日本・ベルギー・フランス・ブラジル」の4国を応援していたので、決勝はフランスを応援します。


 

2018年6月28日(木)
マレ地区

 寒暖の差が激しいパリ(先週は10度をきった日がありました)もじわじわと夏らしくなり、ここ数日は真夏の太陽です。あと2週間ほどで学校は休みになり、ヴァカンスが始まるので、街の中もウキウキ気分です。観光客も増えてきてセーヌ川遊覧はこの通りです。(写真左 )

  最近は、デパートは日曜日も開けているところが多いので、日曜も街中は賑やかです。数年前までの日曜日は基本的にお店はお休みだったので、土曜日を安息日にするユダヤ教の人が多い「マレ地区」のお店だけが開いていて、日曜といえば「マレ」でした。これは、マレでよく見かけるお菓子です。ケシの実を使ったものも多く、このお菓子の上段はりんごで下の黒い部分がケシの実です。(写真左下)

 

 ユダヤ教の安息日は「シャバット」と呼ばれ、金曜日の日没から土曜日の日没までを指します。マレのお店では、このような「営業時間」を見かけることがあります。「営業時間:日曜から木曜:11時ー19時」そして、その下に「金曜日:シャバット(Chabbat)冬は16時まで。夏は18時30分まで」。(写真右)

  留学中に、半年ほどユダヤ人の大家さんの家にホームステイしたことがあります。そして、金曜日の夜からは毎週シャバットでした。まず「電気」ですが、彼らはシャバット中は電気に触れません。そのため、夜中も使う可能性のあるトイレとキッチンの電気は土曜の夜までつけっぱなしでした。私がトイレを出た後、習慣で電気を消すと、夜中でも「トイレの電気をつけてちょうだい」と部屋に呼びに来られました。電気を使わないのですから車に乗らず、コンピューターもテレビも見ません。火も使わないので料理もしません。毎週、静かな週末でした。厳格な人になると、ペンも持たず、髪をとかすこともないと聞いたことがあります。

  半年ほどの滞在でしたが、ユダヤ教の暦を少し経験しました。「出エジプト記」にある、エジプトの支配下にあった苦しみや解放された時の喜びを思い「エジプトを脱出する時、パンを発酵させる暇もなかった」ということから、「ペサハ」という酵母抜きのパンを食べる週がありました。味見させてもらいましたが、パンというよりクラッカーのようでした。

 私は、ユダヤ教ではなかったので自由にしていましたが「シャバットの時の電気だけは承知してね」と言われ「お安い御用」と毎週、電気のついた明るい週末を迎えました。時には大家さん家族と食事を共にすることもありました。お互い、生活についてはなんでも話しましたが、宗教に関しては深く議論することを避けて、ほどほどの距離を保っていました。宗教の入り混じったヨーロッパで共存することの知恵と難しさを知った日々でした。

 

2018年3月1日(木)
セーヌ川の増水

  今年の冬は実によく雨が降りました。そしてセーヌ川が例によって増水しました。 セーヌは時々増水して川沿いの小道が姿を消します。数年前は特にすごくて、川沿いの駐車場が浸水し、停めてあったバス(無人でした)がずるずると川の方に滑ってボッチャンと川に落ちたそうです。バスを引き上げる作業を見に行った人たちは「なんともスケールのでかい光景だった」と言っていました。  雨の合間の少しだけ青空が出た日に、セーヌを見に行って来ました。車道は水没したため通行禁止です。(写真左)。



  セーヌ川の中州にある公園は完全に浸水していました(写真右)





 

 雨が降り続いても街の人々は元気です。雨で散歩ができないため元気がありあまっているのか、電車の中で、素晴らしいストリートミュージシャンに出会うと、いつも以上に盛り上がります。この日は、ミュージシャン達に合わせて、思わず踊り出してしまった乗客たちに遭遇しました。車両の中が突然、バスティーユ界隈にあるミュージックホールになったようでした。



  
音楽界も忙しい時期です。この日は、クリストフ・ルセ氏率いる「レ・タラン・リリック」のオペラ・コミック座(写真右)
の公演を聴きました。
現代風に作られたストーリーに、ラモーのオペラから抜粋した曲を合わせた新しい試みでした。
舞台では鏡が使われ、鏡の光の反射や、歌手の実像と鏡の中の虚像をうまく使った演出で、現代的でありながら幻想的でした。ヨーロッパはオペラが盛んで「レ・タラン・リリック」を例に取ると、1年の間に8つのオペラプロジェクトを持ち、それ以外に小規模な室内楽などがあり、ルセ氏が別のオーケストラから招聘されるオペラプロジェクトもあります。

パリ市内だけでも、月によっては、いくつかのバロック・オペラ公演が重なることもあります。エマニュエル・アイム氏率いる「ル・コンセール・ダストレ」も卓越した若手の奏者で構成されたオーケストラです。2月はヨーロッパツアーに出ていますが、3月はシャンゼリゼ劇場で、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」の公演に入ります。歌手はチェチーリア・バルトーリ、フィリップ・ジャルスキーなどの豪華キャストです。3月はパリにも美しい春がやって来ます。オペラを聴きに行くには最高の季節です!

2018年1月16日(火)
エコな生活

  2018年が始まりました。年を追うごとに、地球温暖化など自然環境が深刻さを増す私たちの地球です。
  というわけで、今年の最初のお題は「エコ」です。

 

   こちらの家(写真左)、ベルギー・ゲント市の郊外にある、私の友人のお家です。友人の旦那さまが、週末に楽しみながら、コツコツと一人で建てた家です。電気系統などは、専門家の助けを借りていますが、基本的には彼が建てました。建て始めてから、完成するまで何年かかったでしょう。家族が住めるようになるのに数年かかり、そこから改築し、増築し・・この写真の姿になるには20年くらい(?)かと思います。




   自然豊かな郊外です。家には太陽光発電を取り入れ、裏の庭には果物や栗の木があって、秋には、連日、バケツに山盛りの栗が取れました。そして、夕方になると、野生のカモが散歩にやってきます(写真右)。お隣との間に塀はなく、背の高い花を植えて、塀の代わりにしているような解放的な郊外の町です。

 

  
   ベルギー時代、巷で「お嫁に行くなら料理はできないとね」という言葉は聞いたことがありませんが「日曜大工のできない男はお婿失格」という言葉は、よく聞きました。ベルギーで業者に頼むと費用が高額な上、あまり技術力が高くない業者が多いのも原因かと思います。ご主人たちは、とてもこまめに家の中を修理したり、ペンキを塗ったりと働きます。 

  次は、ドイツの画期的なエコをご紹介したいと思います。今、ドイツでは「パッシブハウス」という言葉を聞くことがあります。パッシブハウスというのは、高性能な熱交換器を使った空調設備で、冷暖房器具がなくても快適に過ごせる、省エネな家のことを言います。夏と冬の太陽の角度などを計算し、高性能な窓、断熱性や気密性に優れた建物に、新鮮な外気を通すパイプがあり、中に熱交換器がついていて、そこを通る外気は冬は暖かい空気を、夏は涼しい空気を部屋に送り込みます。

     フランクフルトの友人の家で色々と見せてもらいました。部屋の中には、このようなつまみ(写真左)があり、例えば、家族が集まるリビングの温度が上昇すると、このつまみで弁を調節して、隣の子供部屋や寝室に、その暖かい空気を逃がすことができます。パッシブハウスの説明書を読むと、-20度の地でも、暖房器具なしで過ごせるそうです。現在、ドイツはこのシステムを推奨していて、パッシブハウスで家を建てると、住宅ローンの金利が安くなるそうです。


   私たちの時代だけでなく、次の世代、そして、そのあとに続く世代のためにも、地球に元気でいてもらいたいものです。

 

 

2017年11月9日(木)
セーヌ右岸の遊歩道

  数年前から、アンヌ・イダルゴ・パリ市長は、パリの大気汚染対策に、セーヌ右川沿いの道路の一部区間を通行禁止にして「遊歩道兼公園」にする案を推し進めて来ましたが、この春、とうとう遊歩道が完成しました(写真1)

 1日に車43000台が通る道路でした。通行禁止なったのは、ルーブル美術館側のチュールリー庭園からバスティーユ通り付近にあるアンリ4世トンネルまでの3・3kmです。「歴史的な決定。セーヌ川を取り戻す」と市長は宣言しましたが、道路を通れなくなったタクシーや郊外からの通勤者には、ちょっと不評です。なぜかというと、セーヌ沿いの道を車が通らない分、頭上の道路は以前より混雑しているからです。時に、中国にも肩を並べそうになっていた「大気汚染都市パリ」ですから、少しでも空気がきれいになるのは喜ばしいことですが、別の場所に混雑が出るのはどんなものかと思います。

  遊歩道では、パリの絵葉書に出て来そうな「スケッチをする人達」(写真2)、ストレッチをしたり(写真3)、釣りをする人(写真4)を見かけます。セーヌ川でよく釣れるのは「パーチ」という日本ではあまり聞きなれない魚です。魚はよく釣れますが、セーヌ川の魚は汚染もあって食べられませんので、釣った後は、また川に逃がしてやります。

  (写真2)  (写真3)

   (写真4)

 遊歩道を歩いていると、こちらの有名なアパートの側を通ります(写真5)。
 
  (写真5)

  アール・ヌーボー建築でとても美しい形をしています。市内には美しい建築物がたくさんありますが、このアパートのことは時々話題になりました。ここに住んでいた住人の一人が、このアパートを愛し住むことを誇りにして、夜の間、住居の電気を消すことはなかったからです。夜中、このアパートの前を通ると、いつもその美しい窓から光が溢れていました。そしてその住人が亡くなった時、初めて電気が消えたのです。

  遊歩道を歩きながら、ほんの一瞬、思い出に浸りました。右岸の道路にまだ車が走っていた頃、夜中にタクシーや友人に送ってもらう車でこの右岸を走るのが好きでした。ライティングされたシテ島やパリの建物は幻想的で美しく、昼間どんなに忙しい一日でも、その美しさを目にすると、全てを忘れて、またこの街に恋をしました。車で走ることが出来なくなったのは残念ですが、パリの空気がきれいになるためと思って我慢することにします。

 

 

 

2017年8月15日(火)
トゥールーズ

   日本も蒸し暑い日が続きますが、数週間前に行ったトゥールーズは灼熱地獄でした。気温は40度に迫り、
市役所からは「日中の犬の散歩は、肉球を火傷するかもしれないので、控えましょう」というおふれが出ていました。
トゥールーズは、フランス南西部の街で人口45万人ほどですが、街の建物が赤やオレンジ色の暖色系のレンガで作られているため、その美しい色から「バラ色の街」と呼ばれています。晴れた日には市街の南側からピレネーの山々が見えます。1930年代、スペインで共和国派とフランコ派が戦った時に、共和国派スペイン人の主要な亡命先になったため。今も多くのスペイン人が住んでいて、街で2番目によく話される言語はスペイン語です。旧市街は広くなく、歩いて回れる広さですが、その中に重要な建築物がいくつもあります。

  街の中心にある市庁舎(写真1 左)は1700年代に建てられ、内部の宮殿のような美しさは庶民の誇りです。トゥールーズ市民は、ここで結婚式をあげることできます。          
 
                                     

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世紀に建築されたサン・セルナン大聖堂(写真2)はスぺイン・サンティアゴ・コンポスッテラへの巡礼の道として、多くの巡礼者を迎えてきました。

(写真1)


                          
(写真2)

 ジャコバン修道院はカトリック・ドミニコ派が最初に作った修道院として有名です。聖堂内の支柱は天井に向かってそびえ立ち、その姿は「ヤシの木」のようです(写真3)。



(写真3)


 そして、このチャペルの奥にある修道院では、世界で最も美しい音楽祭「ジャコバン・ピアノフェスティバル」が行われます。聴衆はピアノが置かれた部屋や(写真4)、美しい庭を背景にした回廊(写真5)に椅子を置いてコンサートを聴きます。

  (写真4)  (写真5)

 そして、この街には、世界的に有名な「トゥールーズ・オルガン・フェスティバル」があります。秋の12日間に50ほどのコンサートやイベントがあり「国際オルガンコンクール」も開催されます。先日、トゥールーズで、このオルガン・フェスティバルの芸術監督であるイブ・レヒシュタイナー氏とお食事を共にして、フェスティバルについてお聞きする機会に恵まれました。市内には20台以上のオルガンがあり、その内の9台が政府の「歴史的記念物」の保護下にあります。様々な時代に制作されたオルガンは「フレスコバルディなど初期イタリアはサン・アンヌ教会のオルガン、バッハなどドイツものはオウグスティン教会、クープランなどフランスバロックはサン・ピエール教会のオルガン」などレパートリーによって弾き分けることができます。トゥールーズは「ミディ・ピレネー」というフランスの地域に属しますが、ミディ・ピレネーには370以上のオルガンがあり、現在、約60台のオルガンが政府の保護下に置かれています。

 フェスティバル期間中のイベントには「 ’’今日だけ特別公開’’ ○○教会秘蔵の小型オルガン(ルイ15世時代に制作)を見にいくツアー」というのもあっておもしろそうです。コンクールの8名の審査員の中にはフランス・オルガン界の重鎮M・ブブォワール氏、W・ヤンセン氏、そして日本でもおなじみのロレンツォ・ギエルミ氏のお名前もありました。 

 そういえば、数年前に、イタリア・トリエステ地方で開催される「夏のオルガンフェスティバル」の話を、そのフェスティバルの企画委員の一人であるイタリア人の友人から聞いたことがあります。その友人が「毎日、別の教会のオルガンを使って、連日コンサートするフェスティバル」と言うので、「連日コンサート?イタリア中のオルガンを使うのじゃなくて?」と聞いたら「この地方だけで、毎日違ったオルガンを使っても、夏中フェスティバルが出来る」と言っていました。夏中って・・2ヶ月(7月、8月)? 60台ほどのオルガンがあるということでしょうか? 何人のオルガニストがこの地方にやってくるの?と、この時は頭が混乱してしまいましたが、フランス・ミディ・ピレネーに370台というのを聞くと、トリエステ地方に60台はあってもおかしくないわ、と納得してしまいました。恐るべしヨーロッパのオルガン社会です。

 

2017年5月1日(月)
ルイ14世とドビュッシー

 ヨーロッパの4月はイースター(復活祭)があり、10日間ほどイースター・ヴァカンスがありました。

  今年は例年よりも暖かく、一斉に咲いた花々に皆うきうきしています。

  イースターの象徴であるウサギや卵型のチョコレートが街にあふれ、人々はプレゼントにこのチョコレートを贈りあい、子供のいる家庭では、卵型のチョコを庭の木の根元や草むらに隠し、子供達がそれを見つけて食べる「エッグハント」という楽しみがあります。子供達にとっては、チョコレートをたくさん食べることのできる時期ですが、そのおかげでお腹をこわす子供もたくさんいて、お医者さんは忙しそうです。

  そんなヴァカンスのとある1日、パリ郊外にあるサンジェルマン・アン・レーに行ってきました。ルイ14世生誕の地で、現在はパリ屈指の高級住宅地です。パリの中心から電車で20分ほどの距離です。 

  サンジェルマン・アン・レーに着くと目の前にお城がありました。駅の前に城がある地というのを知らなかったので少し驚きました。1122年頃、ルイ6世がここに城壁を建ててから後に、歴代の王が増築と改築を繰り返し、フランソワ1世がその土台を使って16世紀に建てた城をシャトーヴュー(古城の意)(写真1)

(写真1)

後にアンリ4世がこの城の横に新しい城シャトーヌフ(新城の意)を建てました。そしてこのショトーヌフで1638年にルイ14世が生まれました。1682年にルイ14世がヴェルサイユに移るまで、彼はシャトーヌフとシャトーヴューに住み、サンジェルマン・アン・レーは歴代フランス国王の居住の地として重要でした。残念ながらこのシャトーヌフは現在は残っていません。シャトー・ヌフがあった場所から、彼方にパリの街が見えました(写真2 右下)



街を少し歩いてみようと、観光案内所に行くと観光案内所の建物に「ドビュッシーの生家」というプレートが

かかっていました。案内所に人に「ドビュッシーはここで生まれたんですか?」と聞いたら、「そうよ。2階が記念館

になっているから上がってごらんなさい」と言われました。
2階の記念館は小さな部屋でしたが、彼が使っていた

メトロノーム(写真3)や生活を彩っていたであろう美しい中国製の陶器、そして生家なのに、なぜか彼のデスマスクがありました。机の上には大きなカエルの置物(写真4)があって、その机の傍にも愛嬌のあるカエルの置物(写真5)がありました。子どもの頃のドビュッシーの写真や読んでいた絵本、結婚して、彼の幼い娘が色を塗ったポストカード、そして生活を共にした品々。。この部屋に入ってから退出するまでの半時間ほどの間、部屋の中は私一人でした。ドビュッシーが生きていた時代にトリップして、彼の人としての部分をちょっと垣間見たような不思議な時間でした。

 (写真3)   (写真4)

 (写真5)

 

 記念館を出て街を歩くと、いたるところに不動産屋がありました。
 高級住宅街だけあって住みたい人が多いのかもしれません。

  

 

2016年12月19日(月)
バーゼル

 
 スイスのバーゼルに来ています。いつもは、パリから電車でバーゼルに入りますが、今回は飛行機で来ました。

 空港に着き、なかなか質問がしつこいパスポートコントロールのおじさん(最近はテロの影響からかパスポートコントロールが厳しいです)から解放されて出口を出ると、目の前には左右2つに分かれた出口があります。右は「スイス方面」左は「ドイツ・フランス方面」です(写真右)。バーゼルはドイツとフランスに隣接していますから、この表示は当然といえば当然ですが「ヨーロッパだなあ」と今更ながら感動します。隣の国に入ってしまわないよう「出口’’スイス’’」の表示に従って歩きます。

  バーゼルの街はそれほど大きくはありませんが、街中の交通手段はとてもわかりやすく、人々も親切で、私のお気に入りの街の一つです。そしてこの街には、古楽で大変有名な学校「バーゼル・スコラ・カントルム」があります。先日、来日したアマンディーヌ・ベイエもここのヴァイオリン科の教授です。学校は緩やかな坂を上った美しい地域にあり、私の多くの友人達も若き日にこの学校で学びました。旧友の一人は今、この学校で教えています。

 学校からそう遠くない場所に「音楽博物館」があります。そこで見かけた幾つかの楽器をご紹介したいと思います。

 このヴァージナルはベルギー・フランドル地方で1572年に作られ、バーゼルの商人が後に買い取ったものです(写真左)。見た目も美しい楽器ですが、よく見ると、鍵盤側に蓋が下がっていて鍵がかけられるようになっています。


 
 そして珍しいことに小さな鍵も現存していて、楽器の前にちょこんと置いてありました(写真上)。
 このかわいい鍵を楽器の持ち主は大切に持っていたのかと思うと、どのような家で、どのような人が弾いていたのかと想像が膨らみます。

 次の楽器は、ふいご付オルガンです(写真下)。
 
 ふいごを持ち上げる時は歌手がブレスをする(息を吸う)のと同じで、ふいごが下がる時は息を吐いているのと同じ状態です。歌手が歌っている最中に無理に息を吸おうとすると音楽的に変だったり、音が出なくなるように、奏者が弾いている最中にふいごを上げると楽器の音がひきつったり出なくなることがあります。奏者がたくさんの和音を一気に弾くと、弾いた鍵盤の数だけオルガンパイプが空気を必要とするため、
急激にふいごが下がるので、ふいごの空気が無くならないように、小さなブレスの場所(ふいごを少しだけ上げる)と大きくブレス(大きく上げる)する場所を、楽譜の中からいち早く見つけてふいごの中の空気をコントロールします。
よい奏者だとふいご役の動きを感じて、一緒に音楽的にブレスをしてくれたりします。実は私はふいご役をするのが大好きです。音楽的にとても大切な役目です。



 3番目の楽器(チェンバロ)は、1930年にバーゼルのカンマー・オーケストラがパリのプレイエル社に注文した「ランドフスカ・モデル」です(写真下)。その翌年にランドフスカがこの楽器をバーゼルで演奏しました。ランドフスカが弾いていたプレイエル社のチェンバロをパリで聴いたことがありますが、それは素晴らしい楽器でした。この楽器を使ったコンサートも是非聴いてみたいです。


 昨日、街の中心部から、バスでほんの10分ほど行ったところにある小さな街に知り合いを訪ねました。ほんの10分の距離ですが、この街はスイスではなく「ドイツ」です。家に着き、お茶を飲みながら尋ねました。「ここがドイツということは、紙幣はスイスフランではなくユーロですね?」 彼が「そうだよ」と言うので「お仕事はバーゼルでしょ?どうしてるんですか?」と聞いたら「毎日、スイスフランとユーロの2つの財布を持ち歩いてる」と言いました。そして、こう付け加えました。「ここはフランスも近いので、ユーロになる前なんて財布が3つ(スイスフランとドイツマルクとフランスフラン)だったんだ!今なんて財布2つだよ。楽勝さ!」。。さすが、ヨーロッパ人です! もちろん、こういう環境ですので、彼は何カ国もの言語を日常的に話します。言語は思考を育てます。私は、何カ国もの言語に囲まれて育つ人々の思考にとても興味があります。

 

2016年11月1日(火)
バゲット・コンクール

  食欲の秋です。ミシュランを始めとして、食に強い情熱を持つフランスです。

   本場パリには「エクレア・コンクール」「タルト・オ・ポム(りんごタルト)コンクール」など食の伝統を守りながらも、さらに美味しいものを追求するためのコンクールがあります。その中で、人々が最も関心を持つのが、パリ市とパリ商工会議所主催の「バゲット(フランスパン)コンクール」です。

  これは毎年行われ、今年も200以上の応募がありました。まず「バゲットのサイズ55cm~65cm、重さ250g~300g、1kgの小麦あたり塩分18g」の規定をクリアすると「焼き加減・味・皮・香り・外観」の審査を受けます。10位までが発表され、優勝すると、賞金と1年間エリゼ宮(大統領府)へ毎日バゲットを搬入することができます。大統領をはじめ各国の要人に食される栄誉が与えられるということです。 

   
  過去にはモンマルトル界隈のパン屋で働く優勝者が多かったのですが、今年はリュクサンブール公園のある閑静な6区から優勝者が出ました。パン職人になってまだ1年半という若い職人で、彼が働くお店は「La Parisienne」といいます。

 このコンクールの結果を聞いた時、私は一瞬戸惑いました。というのも、このパン屋さんの住所は、私が以前住んでいたアパートの数軒先だったからです。友人に「美味しいパンだった?」と聞かれましたが、「日曜日に他のパン屋さんが開いてないから “今日は仕方なく、ここのバゲットを買う”というパン屋さんだった。バゲットは“普通の味”だったわ」と答える感じのパン屋さんでした。「お店の名前も一緒だった?あなたが住んでいた時はなんていう名前だった?」と聞かれても「名前・・え~っと、覚えてないなあ・・」。 パン屋のオーナーが代わったのか、はたまた「普通のパン屋」から天才の息子が出たのか、コンクール優勝の味に惹かれ、お店に何が起きたのかという興味も手伝って「よし、行こう!」ということで、久々に前のアパート界隈に友人と行ってきました。 

  お店に着いたのが16時ごろとあって、まだそんなに多くのお客はいません。お店の外観も中で働いている人たちも、私が住んでいた頃とは代わっていました。バゲットを2本買って受け取ると、まだほんのりと暖かく素晴らしい香りがしました。思わず「冷める前に一口食べよう!」と友人とバゲットをちぎって食べました。外はカリカリで中はもっちりとした素晴らしいバゲットでした。目の前はリュクサンブール公園です。ここでバゲットを買って公園で食べるなんて最高の贅沢です。 


 パリ市内のバゲットは1ユーロから、高くても1.4ユーロほどではないかと思います。この「La Parisienne」のバゲットは1.2ユーロでした。日本円にして160円ほどの値段です。この200円にも満たないパンに一生をかける職人が無数にいる国は、いかに自分たちの主食であるパン文化を大切にしているかという証明のような気がします。私たち日本人も、お米を大切にしたいなあ、とふと思いました。

 

 

2016年9月29日(木)
パリ・秋のコンサート
  

   日本も台風の影響などで、寒暖差のある日が続いているようですが、パリも日中と夜との温度差が激しく、朝、冬支度をして出かけても、昼間は半袖でないと過ごせない暑さです。 

   パリでは、秋のコンサートが真っ最中です。今年の古楽の目玉は、S・センペ氏が音楽監督を務めるカプリッチョ・ストラヴァガンデのメンバーが中心になった9回のコンサートを含むフェスティバルが、9月-10月の間に市内2カ所で催されます。先日、その第3回目となるベルギーのコレギウム・ヴォカーレとカプリッチョ・ストラヴァガンデによる、パーセルの「アンセム&ファンタジア」と題したコンサートに行ってきました。会場は、ラ・プティット・バンドでもおなじみのチェンバリスト、B・アラール氏がオルガニストを務めるサン ルイ アン リル教会です。

   教会に早めについたので、教会の入口に立っている正装した係りの男性に「もう、入ってもいいでしょうか?」と聞いたら「あと15分お待ちください」と言われました。しょうがないのでそこにいると、何人かの音楽家達がやってきました。「今日演奏するものです」と彼らが言うと、その男性は「どうぞ」と執事のような厳格さでドアを開けました。そうこうするうちに客も集まり始め、向こうからセンペ氏がやってきました。入口で係りの男性が「音楽家の方ですか?」とやはり執事のようにセンペ氏に尋ねると、多分、楽譜が入っているのだろう、学生のような大きなショルダーを持った彼は小さく「はい」と答えて、ドアを開けてもらい教会の中に入って行きました。思わず、係りの男性に「今のが音楽監督で指揮者ですよ」と教えたい欲求にかられましたが、それはなんとも微笑ましい光景でした。

 ヨーロッパの、特に教会でのコンサートは、不思議な雰囲気です。演奏家は楽屋になる部屋を与えられていますが、音楽ホールのように細かく部屋が分かれていなくて、あっても「男性」「女性」という大まかなものです。そのため演奏家は着替えをす
ますと会場に出てきて、仲間や知り合いの聴衆と談笑しています。







     この日、会場に入ると、舞台袖にはテレビカメラが2台置かれ、テレビ関係者が打ち合わせをしています。
しかし、教会の後方では演奏家たちが談笑し、センペ氏はCDが置かれたテーブルの前に立って、しばらく何か考えた後、おもむろに「CD・10ユーロ」と書かれた紙の位置を直しました。音楽は大胆ですが、細やかな人です。そういえば、彼の家もいつも整理整頓されています。開演時間が近づいてくると、談笑していた彼らも舞台に向かいながら音楽に集中していきます。そして教会の天井に立ち昇った最初のハーモニーの美しさは圧巻でした。 

  私はこういう教会で行われる素晴らしいコンサートが好きです。コンサート前にも拘らず聴衆とも談笑する彼らが、舞台に上がると素晴らしい音楽を奏でる瞬間。その身近さと舞台での凄さの対比が魅力的です。

  古楽の企画で有名なPh・マイヤールプロダクションの「2016-2017」(ヨーロッパは学校も年間コンサートも9月始まりです)には、新しい歌手が何人も登場します。その中で、来年、来日するチェンバリストのジャン・ロンドーも、新進気鋭のリュート奏者、トーマス・ダンフォードと10月に登場します。 

 http://philippemaillardproductions.fr/rubrique/saison-de-concerts-a-paris-2016-2017.html?idArt=10&prod=311

  
 昨年はマイヤールプロダクションでソロリサイタルをしたロンドーですが、今年はテオルボとチェンバロという面白そうな企画で登場です。彼はソロだけでなく、素晴らしいアイデアのコンサートも多く、現在ヨーロッパを代表する最高の古楽奏者の一人です。2016年春に発売された彼の新しいCDVertigo」も大変な評判です。容姿もさることながらスター性抜群のチェンバリストです。

 

 

「街を歩くと・・」
2016年8月31日(水)

 初夏には洪水に見舞われ、夏のニースのテロの影響を受けて観光客が減っているパリです。

 もともと8月はパリっ子がヴァカンスに出るため、街の中は静かになりますが、今年は例年より静かです。

 散歩をするには最高です。私が大好きなサン ジェルマン デ プレ界隈を歩いていると、家の前にかけられたいくつものプレートに気がつきます。過去にその家に住んでいた作家や画家、音楽家を記したものです。

 
  まずエドゥアール・マネの生家です(写真 左。クリックすると拡大します)。

 1863年「草上の昼食」を描いて物議をかもし、それにもめげず2年後「オランピア」を描いて大スキャンダルになりました。彼の絵を非難したお偉方が教授をしていた美術の名門校「エコール・デ・ボザール」が、彼の生家から歩いて30秒のご近所というのは皮肉です。

 


マネの生家からほんのすぐの小道に、17世紀フランスの重要な劇作家の一人であるジャン・バティスト・ラシーヌが1699年4月21日に亡くなった家があります(写真 右)。
 それを通り越して少し広い通りに出るとショパンの恋人だったジョルジュ・サンドが住んだ家があり、その近くには同じく作家のシドニー・ガブリエル・コレットの家があります。




               同じ通りにリヒャルト・ワーグナーが1841年の秋から1842年の春まで暮らした家があります(写 真 左)。
 今は素敵な本屋 や個性的なジュエリー店のある通りですが、この通りをワーグナーが歩いていたのかと思うと感動します。
 



  「サン ジェルマン デ プレ」からソルボンヌ大学を超えてパンテオンの方に行くと、多くのレストランや食材店が並ぶ「ムフタール通り」があります。アーネスト・ヘミングウェイの小説「移動祝祭日」に、彼が友人と食事をしたり食材を買った話が出てきます。このムフタール通りの近くにヘミングウェイが1921年から4年ほど暮らした家があり、その家は詩人のポール・ヴェルレーヌが1896年1月8日に亡くなった家でもあります(写真 右)。
 そしてその家に向かって左隣に、日本の作家辻邦生氏が暮らしておられたことがあります。ヴェルレーヌとヘミングウェイが暮らした建物は、今はレストランになり、そこのオーナーが私に「僕が子供の頃、辻邦生氏が隣に住んでいたんだよ。可愛がってもらった記憶がある。優しい人だった。」と辻氏の思い出話をしてくれました。 

 
  
 
 カルチェ・ラタンから少し散歩をして「サンルイ島」に入ると、セーヌの側に彫刻家カミーユ・クローデル
が精神病院に行く直前まで住んでいた家があります(写真 左)。劇作家であり後に外交官だった弟のポール・クローデルがこの家の前で、馬車に乗せられ精神病院に向かう姉を見送りました。彫刻家ロダンの作品を愛する私に、彼の恋人だったカミーユ・クローデルは無視することのできない存在です。ロダンが製作した、カミーユの胸像「アデュー(別れ)」という作品をロダン美術館で見たときは涙がこぼれました。時を超えて、ロダンとカミーユの生身の悲しみが私に移ったように思いました。そして、作品を見るものに、そのような痛みを感じさせることの出来るロダンの凄さに感動しました。


 最後に「マレ地区」にあるこの建物をご紹介したいと思います。モーツァルトがまだ子供で、彼の父とパリに来たときに泊まった建物です(写真 右)。

 パリは決して大きな街ではありませんが、至る所に、このようなプレートをかけた家があります。散歩をしていると歴史散歩をしているような気分になります。そういえば、作家ヴィクトルユーゴーが住んでいたアパートに、現在お住いの古楽奏者もいらっしゃいますね。余談ですが「HugoVictor」(ユーゴー&ヴィクトル)という素晴らしいチョコレート屋があります。若いパテシエですが、まだ無名の頃にヴィクトル・ユーゴーの家(今はヴィクトル・ユーゴー博物館)のある地域に住んでいました。そして店を持つときに、文化人や小説家が多く住むその地域に敬意を表し、ヴィクトル・ユーゴーの名をもらって(ついでに)姓と名をひっくり返し、店の名をHugo&Victor」にしたそうです。今は日本にもお店がありますので、皆様も見かけられたら、是非一度食べてみてください。見た目も美しい素晴らしいチョコレートです。
 

 

2016年7月8日(金)
ニコラウ・デ・フィゲイレド
  

  昨日(7月6日)の朝、ブラジル・サンパウロでチェンバリストのニコラウ・デ・フィゲイレド氏が急逝されました。半年ほど前に一度心臓発作を起こしていましたが、その時は驚異的な回復力で演奏活動に復帰しました。本人は元気そうでしたが、やはりその頃から心臓を患っていたのだと思います。

  昨夜は夜中に(ブラジルと日本は12時間差なので)ブラジルから電話が来て「先ほど、彼が亡くなった」と知らされました。その後、別の友人からメールが来たりして、昨夜は一睡も出来ませんでした。

  彼は、私がお世話になった最後の先生で、後には友人であり、人生で最も影響を受けた人物でもありました。

  私がベルギーからパリに移った最初の年、彼が教えていたパリ国立音楽院の声楽科と学生有志のオーケストラでは「ヘンデル・アルチーナ」を、将来フランスのオペラ界を背負うだろう彼らに、できる限りプロと同じ経験をさせるべく、リハから本番までに3ヶ月をかけた大々的なプロジェクトが行われていました。本番初日には、もちろん評論家もやってきます。ニコラウは指揮者で総監督でした。
 まず、最初の1ヶ月目は歌手達の個人レッスンから始まります。全く「手加減」というもののない、それは厳しい指導でした。舞台稽古が始まってからは、演出家と白熱した議論を交わし、生徒達への要求もレベルが上がってきて細かくなってきていました。この時期、ニコラウから「オケの中にいるチェンバリストが僕の言ったことを理解しているか心配なので、彼の横にいて彼を助けてやってくれ」と言われ、私は毎日チェンバリストの横に座っていました。3ヶ月目に入ると疲れと本番が近づいたことによる緊張感で、リハもピリピリした空気に包まれていました。特に主役級の歌手達の中にストレスからか精神的に不安定になる生徒も出てきました。毎日が新しい問題との戦いでした。この時期の私の役目は、ニコラウが演出家とぶつかるのを止めに入り、落ち込む学生を励まし、チェンバリストがミスをすると、即座に睨むニコラウから目をそらし、チェンバリストと一緒に身を縮めることでした。

  パリに行って3ヶ月、ニコラウと知り合って3ヶ月なのに、私たちはプロジェクトの中で言いたいことを言い合い、時に喧嘩になることもありました。数週間後に本番が始まると、それまで不安定だった歌手も、リハ中に睨まれたチェンバリストも全てを忘れて全力投球、ただ音楽の中にいました。そして最後の本番が終わった後、楽屋で歌手達に赤いバラが1本づつ手渡されました。赤いバラの中に1本だけ白いバラがあり、ニコラウがそれを私にくれました。「これは君のために準備したんだ。ありがとう、よく頑張ってくれた。」と言って。その瞬間、私は彼の独裁的な3ヶ月を忘れ、喧嘩したことも忘れて、オケの生徒達にそのバラを見せまくった後に、家に持って帰り、ドライフラワーにしました。

  その後も彼からは多くのことを学びました。この年「モーツァルトイヤー」だったので、彼がチェンバロを弾いたパリ国立オペラ座のリハーサルに通いつめました。後に、彼が過去に弾いたオペラやソロの楽譜を大量にくれたことがありました。楽譜の中には多くの書き込みがあり、彼の演奏の歴史がそこにありました。レッスンが終わると「師弟」から「友人」になって、よくパリの街に出かけました。展示会を見たり、一緒に料理をすることもありました。いろいろなことをたくさん話しました。

  彼は音楽や人に対しては全存在をかけて臨みましたが、その分、日常生活は少しゆるめでした。よく忘れ物をしましたし、信じられない方向音痴でもありました。そんな時、彼は独裁者から子供のようになって、恥ずかしそうに私たちに行き方を聞いてきました。 

 昨日、悲しみの中にあってふと心配になりました。ニコラウが向こうの世界で道に迷って困ってないだろうか。

 でも、いつか向こうの世界で会ったら、いつもの愛すべき笑顔でこう言うと思います。「僕、迷わなかったよ!」

 本当はちょっぴり迷っていてもね・・ 

 

2016年4月8日(金)
テロ後の変化

  先々週末、パリの天気は寒い上に荒れました。数分ごとに繰り返す暴風と叩きつける雨に突然の晴れ間、人間が繰り返すテロなどへの愚かな行為に対する天からの怒りではないか、と思いたくなる、意志を感じるような天気でした。

  写真1  3月23日に、サル・ガヴォーで「ベアトリーチェ・マルタン、ジョン・ロンドー、バンジャマン・アラール」のチェンバリスト三氏による「J.S.バッハ:2台と3台のためのコンチェルト」のコンサートがありました(写真1)。

 サル・ガヴォーはサル・プレイエルと並ぶパリの由緒あるホールで、過去にはラヴェルの作品の初演が行われたことや、ロン・ティボー国際コンクールの会場としても世界的に有名です。バンジャマン・アラール氏はテロ(3月22日)の直前までオランダとベルギーにいましたので、テロでベルギー国内の全ての交通手段が遮断される前に、運良くパリに戻れたのだと思います。 

写真2
 パリでのテロの後、やはり街中でのセキュリティは厳しくなりました。デパートに行くと、入り口に立っている警備の人に、
カバンの中をあけて見せなければいけません。
 また、北駅に発着する国際列車のプラット・フォームには、空港にあるような金属探知機のゲートや荷物用のX線検査装置が登場しました(写真2)。この写真では、ホーム左側が、これから国外に出かける人たち、ホーム右側は国内に入る人達で、写真奥に人が溜まって見えるのは、パスポートチェックをしているからです。



 写真3 通りを歩いていると、様々な宣伝に混じって、よく目にするポスターがあります(写真3)。陸軍への新兵募集です。

 「私の国のために」というフレーズが目を引きます。友人達もこのポスターが気になっていたようで「いやに目につくのよね。。テロの前はあっても気にしていなかっただけなのか。でもテロ後はポスターを増刷している気がするわ」と言っています。 

 デパートの入り口でのチェックや、電車に乗る前の金属探知機は、特別、我々の生活を変えるものではありません。心のどこかで、限られた時期のことだろう、と思いたがっているところもあります。でも、もしかしたら、これからも続いて日常化してしまうかもしれません。

 ふと、私たちはこれからどこに向かうのだろう、と思うことがあります。

 

2016年3月22日(火)
ブリュージュ 聖ドナティアヌス教会

  先週からベルギー・ブリュージュに滞在しています。3月27日がイースターなので、この時期はチェンバリストからオルガニストになって、受難曲を弾く日々です。ベルギーはカトリックの信者さんが多いので、イースターの前、40日間は食事制限に入る人もいて、一昨日の18日(金曜日)は断食の日でした。


 日本は春らしくなってきたことと思いますが、こちらはまだまだ寒い日が続きます。昼間は最高で7度、夜は零下に落ちる日もあります。冬のような日々ですが、木々や草花をみると、確実に春に向かっていることを教えてくれます。街の中では、野生の水仙が咲き始めました。





ブリュージュ市のシンボルが「熊」なので、滞在先のお家の椅子は熊をモチーフにしています。これは私のお気に入りの椅子です。







ところで、最近、フランドル楽派に興味があり、それとともに、フランドル地方の建築にも興味が出てきて、ベルギー滞在が楽しくなってきました。住んでいる時は、さほど興味がなかったのに、ベルギーを離れてから興味が出るなんて、なかなか人生うまくいかないものです。

それで、先日地元(ブリュージュ)の友人達と作曲家「ヤコブ・オブレヒトJacob.Obrecht」の「ミサ・マリア・ツァルトMissa Maria Zart」について、話をしていたら、友人の一人が「彼が働いていた聖ドナティアヌス教会のことを知っているか?」と聞くので「聖ドナティアヌス教会は250年ほど前に壊されて今はないでしょう?」と言ったら、「実は遺跡があるんだ」と言うので、びっくりしました。さすが地元人です! そこで、早速友人に貰った連絡先に予約を入れて、後日見に行きました。遺跡は、とある建物の地下にあり、許可を得て見ることが出来ます。


聖ドナティアヌス教会内部 1690年の絵画から

地下に降りると、街のざわめきが遠くなり、時間が止まったような遺跡の中に一人でいました。歴史を経た建物が持つ独特の重い空気の中を歩いていると、天使が描かれた壁画を見つけました。色のある壁画は、そこだけが確実に人が生きていた証のようです。壁画を見ていると、500年という時間を超えて、オブレヒトの音楽の生き証人と向かい合っているような気がして、胸が熱くなりました。彼もこの天使を毎日見ていたことでしょう。








友人達との話に出た「ミサ・マリア・ツァルト」は1時間を越える長いミサ曲で、タリス・スコラーズに素晴らしい録音があります。

2016年1月26日(火)
ブラジル・サンパウロ

  今年「第31回オリンピック」がブラジル・リオデジャネイロで開催されます。ブラジルは今まで滞在した国の中で最も心に残った国です。1月初めにサンパウロからブラジル人の友人たちがパリに来たこともあり、しばらく心の奥で眠っていたブラジルへの想いが大きくなりました。日本とブラジルはちょうど12時間時差で地球の反対側どうしにあるので、日本が冬だとブラジルは夏です。

   初めてブラジルに行く前のことでした。最も犯罪の多い街としても有名だったので、インターネットでいろいろと調べたところ、調べれば調べるほど「行くのをやめようか」と思うほど、怖い話しか出てきません。例えば、大通りでも夜の赤信号は「(銃で狙われないために)車は徐行距離を長く取り、停車時間を短くしましょう」

  外務省のHPには「’’昼夜を問わず’’殺人、強盗、誘拐が多発し・・」とあります。私を最も恐怖に陥れたのは「サンパウロ市立劇場の駐車場は薬の売買で最も危険な場所です」という一文でした。(私・・その劇場に1カ月半ほど通うんですけど・・)パリに住んでるブラジル人で、サンパウロで一緒に働く人に電話をかけて「ニュースになるということは一般的ではないからだよね?ね?」と聞くと、ゆったりとした声で「本当だよ、危ないよ~」と言われました。「怖い経験あった?」と聞くと「一度もない。だってボク慎重だもん」と電話の向こうで胸を張る姿が目に浮かぶようです。しかし、この人、ヨーロッパで4回パスポートを無くしたことを私は知っています。(この人が今も生きてるんだから大丈夫よ)と思い直し、その次の週にサンパウロに降り立ちました。空港からタクシーに乗り、滞在するホテルに行く道すがら、お城のような大邸宅が並んでいるのを見ました。しかし別の地域に入ると貧民街があります。そしてタクシーが着いた「リベルダージ」という街で一気に時差ぼけが飛んでしまいました。東洋人が たくさん いて、日本語があちらこちらにあって日本庭園もあって、でも日本じゃない・・


  1908年からブラジルに渡った日本人移民の人達が集まって作った街がリベルダージです。翌朝、街を歩くと、パン屋にはブラジルのパンが置いてある横に「メロンパン」があり、果物屋では地元のトロピカルなフルーツの横に「デコポン」がありました。仏壇屋もあります。日本語を話している人達に話しかけると、皆親切に滞在に必要なことを教えてくださいました。その翌朝、市立劇場の担当者がホテルに来て、これから毎日通うだろう劇場への行き方を教えてくれました。

  数百メートルほど先に見える劇場を指差しながら「あれが劇場だよ。歩いて5分だけど、ここから劇場までの道は危ないから歩いちゃいけないよ。00行きの地下鉄に乗って1駅。そこでXX行きに乗り換えてまた1駅」 私はそこで友人に聞いた同じ質問を彼にもしました「怖い経験はおありですか?」すると、彼は答えました「一度もないよ。ボク慎重だから」

  市立劇場のリハ初日、会場に行くと私の横には日系のチェリストが座っていました。名前も顔も日本人ですが日本語は話せません。私もポルトガル語はできないのでお互いに英語で話しました。不思議な気分です。リハが終わるとオケのメンバーが話しかけてきました。「サンパウロの学校にも古楽器科があるんだよ。僕、バロック・ヴァイオリンも弾くんだ」というので、古楽器科のある学校に連れて行ってもらいました。学校に行くとバロック・ヴァイオリン科の教授は、ベルギーで私と同じ時期に学生をしていた「L・オッタビオ・サントス」、チェンバロ科の教授はデン・ハーグで助手をしていた「A・サントーロ」でした。懐かしいです! ブラジルで再会するなんて!そしてブラジル 人で古楽の大御所「リカルド・カンジ」の甥と姪がこの古楽科に在籍していました。甥はバロック・チェロ、姪はチェンバロを弾いています。

  リベルダージで暮らす中で、日系の人達から移民の歴史や苦労話を聞きました。滞在中、たくさんの人達にお世話になりました。劇場では、オケのメンバーの中に友人もできました。長いリハ期間が終わってプロジェクトが始まると、1回1回終わりに近づくのが寂しくて、別れが辛くて、でも同時に「音楽を続けててよかったなあ」とも思いました。地球の反対側に住んでいる彼らと一緒に音楽をする喜びを感じました。

  濃密で楽しかったサンパウロの日々ですが、一つ心残りがあるのは「アマゾン魚の寄せ鍋」を食べ損ねたことです。11月に入ったサンパウロは40度を軽く超えていたので「鍋」を食べる気にはなれませんでした。

  リベルダージの近くに「鍋屋」があり「すき焼き」と並んで「よせ鍋」がありました。店の前の写真を見ると「シーラカンス」がものすごく凶暴な顔をしたような魚が写っていました。私は顔を見ただけでひるみましたが「身が淡白でおいしいのよ~」と皆さん食べる気満々でした。

  滞在中、出会った人達によく聞きました。「怖い経験をしたことありますか」でも私の出会った人達は皆「いいえ」と答えましたが、そのあと必ずこう言いました「もっのすごく危ないんだよ!この街は!!」

  サンパウロ発祥の地に立つ建物

 

2015年11月17日(火)
パリ ・11月13日によせて
 
 11月13日の夜、パリで同時多発テロが起きました。

 最も多くの死傷者が出た「ル・バタクラン劇場」の付近は多くの庶民的なレストランなどがあり、若者に人気のカルティエです。二人の私の友人がこの付近に住んでいます。私が事件を聞いたのは14日の朝方で、すぐに連絡を取ると、そのうちの一人の友人と連絡がついて「夜レストランにいたら、客の一人が’大変なことが起きてる’というので事件を知ったわ。家の近くだというので怖くて帰れなくて友人の家にずっといて、朝方恐る恐る家の近くまで来たら、道に座り込んだ人々がいて警官も沢山いて、まだ救急車も止まっていた。異様な雰囲気で、人生で初めてみる光景だった」と言っていました。

 パリの観光名所の一つに「アンヴァリッド」があります。ナポレオンが眠る墓のある建物です。その横に軍事博物館があり、そこでは古代から第2次大戦までの世界有数の武器のコレクションを見ることができます。人間が武器を持った最初の頃、(少し、生々しい話になりますが)人を殺すには相手と差し向かいで戦うことが必要でした。刺せば手応えがあり、殴れば自分の手も傷ついたかもしれない、痛みや恐怖、息遣いさえも互いに感じていたことでしょう。しかし現代に近づくにつれ、銃も連射ができるようになって、人を効率良く大量に殺せるように武器が改造されていきます。「昔の殺し合いの方が人間的だったなあ」などと思いながら博物館をあとにしたものでした。

 「ル・バタクラン劇場」に乱入した犯人達は自動小銃で100人近い人間を殺しました。彼らは自分達の銃弾に倒れた人々の顔を何人覚えているでしょう。この夜、この劇場には幸せな人もいれば苦しみの中にいた人もいたと思いますが、やはり皆世界に一つしかない各々の人生を生きていました。それらを一まとめにして効率的に終わらされてもいい人生など、この世には一つもなかったと信じています。

 テロから数日が経って、街の人達は傷つきながらも「普段通りの生活に戻ろう」としています。それは、この悲劇に屈しないという彼らの無言の勇気のように思えます。

 事件が起きた場所で花を手向ける人達に混じって、自分の専門を通して人々に寄り添う人達もいます。ジャーナリストは書き、画家は描(えが)いて、そして音楽家は奏でて、音を通して祈ります。14日の朝、劇場の前で最初に奏でられた音楽は、ボロボロのピアノを車輪の付いた台に乗せ、自ら引っ張って来た男性が弾いた、ジョン・レノンの「イマジン」でした。


イマジン

「想像してごらん、天国なんて無いんだと、簡単でしょう? 僕らの足元に地獄なんて無いし、僕たちの上にはただ青空があるだけ、想像してごらん、みんなが今日という日のために生きてるって」

「想像してごらん、国なんて無いんだと、難しいことじゃ無い、殺す理由も殺されることも無い、そして宗教も無い、想像してごらん、みんなが平和な人生を送っている姿を」

                    ーー 中略 ーー 

「僕のことを夢想家だというかもしれない、でも僕は一人じゃない、いつか君も僕らといっしょになって共に生きるんだ」

 

 この事件はRepublique(レピュブリック)広場の近くで起きました。この広場にはフランス共和国を象徴する「マリアンヌ」のモニュメントがあります。この像は頭に「自由」を象徴するフリジア帽をかぶり、右手に「平和」を意味するオリーブの枝を持っています。私たちはこの広場の近くで起きた悲劇を、そしてこの多発テロの起きた11月13日を永遠に忘れることは無いでしょう。 


2015年11月12日(木)
ユーロスター
  久しぶりにユーロスターに乗ってロンドンに行きました。パリを出発地としてベルギー・オランダ・ドイツに向かう高速列車を「タリス」、イギリスに向かう列車を「ユーロスター」、スイスに向かう列車を「リリア」と呼んで区別しています。その中で乗車までに最も時間がかかるのがイギリスに向かう「ユーロスター」です。

  現在、EU圏内は国境検査なしに国境を越えることができる「シェンゲン協定」で結ばれていますが、イギリス
はこの協定に入っていないため、列車での入国にも細かい検査があります。

  パリの北駅の「ロンドン行改札口」には、まず空港と同じような荷物検査があり、そこを通過すると、会社などの門の横にある小さな守衛室のようなところに、眼つきの鋭いおじさんが座っていて、このおじさんと差し向かいで細かい質問に答えなければなりません。最初は紋切り型の「ロンドンには何しに行きますか?」から始まって「泊まるところの住所と(個人宅の場合は)その人との関係」。「友人の家に滞在します」と答えると「どこで知り合った友人ですか?」などと、この辺りから質問が細かくなり、冷ややかな緊張感が互いの間に漂い始めます。

 このおじさんから解放されると少しロンドンに近づいた気がしてウキウキし始めます。そ して列車 に乗ると 、次の緊張はドーバー海峡のトンネルに入ってからの20分です。以前、このトンネル内で電気系統の故障のため、列車が16時間止まる事故がありました。地上ならまだしも、海中で止まるのだけは勘弁して欲しいです。このトンネルを抜けると、列車は「もう少しでロンドンだ。頑張ろう」と言わんばかりにスピードを上げます。



St Pancras駅の二つの時計
  

 ロンドンの玄関口「St Pancras」駅に到着すると大きな「同じ時刻(冬時間)を指し示す」二つの時計が並んで迎えてくれます。なぜ2つも(その上、色も’白黒’)あるのかわかりませんが、さすが「グリニッジ天文台」のある時計の国です。その二つの時計の誤差が「1分」というところに感動します。 ロンドン入りした数日前に「夏時間」から「冬時間」に変わったヨーロッパ。パリでは右を向くと「夏時間のままの時計」。左を向くと「冬時間」の時計が。。という風に街の中の時計に1時間の誤差があり、観光客達にちょっとした混乱を与えています。


 数日間のロンドン滞在を終えてからベルギーに行きました。ロンドンに向かう時は細かい質問で緊張させられたのに、出国の時はこちらの顔も見ずに気持ち良く通してくれました。











秋のベルギー
 ベルギーに到着すると、そこは秋の黄金色に包まれた世界でした。陽が落ちると風は冬の匂いに変わって、吐く息も白く、冬がもう目の前まで来ていることを教えてくれます。「もう冬だねえ。寒いねえ」と言うと「まだ秋真っ最中よ。暖かいわ」と半袖姿で答えるベルギー人は、やはり北国の国民だと納得します。


踊るおばあさん

 数日後、ベルギーからパリに帰ると、ベルギーの隣国だとは信じられないような暖かさです。日曜日、路上で演奏する人達の横でおばあさんが一人悦に入って踊っていました。冬になるとこのような光景もしばらく見ることができません。2015年もあと2ヶ月で終わりです。


2015年8月21日(金)
記録的な酷暑

  今年のパリは68年ぶり(?)だかの酷暑に見舞われ、家にエアコンを持つ習慣の無い私たちは死ぬ思いをしました。最高温度は42度。42度といえば「入浴時・美肌の適温」と言われる「38度~40度」をはるかにしのぎ「42度以上のお湯はお肌の水分を奪うので、長く湯船に浸かるのは避けましょう」のレッド・マークです。街を歩く人々は日陰に集中するため、建物の影になっている道の隅ばかりが混み、連れられている犬たちは暑さ対策で毛を短くしたり刈られているため、「本当に犬?」と聞きたくなるような「変な動物」が街の至る所を歩いています。

  それでも、街は活気に満ちていました。その理由は、ヴァカンスに出かけるパリジャン達のルンルン気分や、彼らと入れ替わりに、世界中から観光にやってきた様々な国の人達、そして世界でも有名な「パリの(夏の)ソルド(バーゲン)」です。

  ある日、パレ・ロワイヤルの回廊を歩いていると、奇跡的に、私の目の前を歩く人が誰もいません。この美しい回廊を写真に撮る絶好のチャンスです。息を止め、今まさにシャッターを押さんとする私の目の前に、突如、左側にあるレストランから「蟹さんポーズ」のギャルソン(写真下)が飛び出して来て、びっくりした私は思わずシャッターを押してしまいました。ガッカリしてカメラを下ろす私に、このギャルソンが「僕、明日からヴァカンスなんだよ!わ~い!!」 ふ~ん、そう・・楽しんできてね。。



蟹さん・ギャルソン
  ソルド期間のパリには、ファッション関係の人達も沢山やって来ます。ファッションの最先端を行くと言われている有名ブティックには、パリコレや、そのオーディション期間にしかお目にかかれないようなモデル達もやって来ます。そして、そのようなおしゃれな人達を撮ろうと、雑誌カメラマン達がブティックの外で待ち構えていて、その後ろには、物珍しそうにカメラマンを携帯で撮る観光客達がいます。

  シンプルな服装で化粧もしていないのに「この人はプロのモデルだな」と直感する時、なぜ彼らがモデルとわかるのか、自分でも不思議ですが、確信する何かがあります。そして、その説明できない「何か」が彼らがプロであることの証明なのかもしれません。びっくりするのは、その特殊な美しさだけでなく、同じ人間とは思えないほどの足の長さです。信じられません!この世に「バービー人形」のような人間が存在するなんて。。思わず、「成長期の食事メニューは何でしたか?」と聞きそうになってしまいます。

  「酷暑」という二文字には収まらないほど暑かった夏も8月に入ると急速に秋に向かいます。観光客もそれぞれの国に戻り、入れ替わりにパリジャン達が帰ってきます。犬達の毛も伸びて、今は普通のワンコに戻りました。


2015年7月16日(木)
国祭日 (パリ祭)

  714日はフランスの「国祭日」です。日本では「パリ祭」と呼ばれているようです。パリに住んでるフランス人達がこの行事(大統領を始めとするパレード)を見に行くかと言うと、それはあまり無いようで、皆さん、パリを離れてヴァカンスに出かけて行きます。というわけで、パリに残ってこの行事に出かけて行く大半は、外国人観光客とスリの方々です。私も見に行ったことが無かったので、一度くらいは行ってみるか、と今日はシャンゼリゼ通りに向かってみました。

  しかし、行ってみると人が多くて、シャンゼリゼ通りに30歩ほど入っただけで挫折。。。シャンゼリゼ通り沿いに, 日本でもおなじみのブティック「ZARA」を見つけ「Sold(バーゲン)」の4文字に吸い寄せられるように店に入りましたが、洋服を物色中に「どうして、シャンゼリゼまで来てZARAで服を見てるんだろう」と我にかえり、そのままルーブル美術館の方まで散歩して、「装飾美術館」で開催中の「ボタンの展覧会」を見てきました。

 何気なく入りましたが、これは素晴らしい展覧会でした。18世紀のボタンから現代までの3000個と100着ほどの洋服を展示していて、刺繍職人、金銀細工師、ガラス職人らが技術を駆使して作ったボタンが並びました。中には肖像画を描いたものや、シェル(貝殻)をはめ込んだ芸術品もありました。普段あまり気にしていなかったボタンが、いかに機能性だけでなく装飾的な役割を担っているかということ、洋服の上に並ぶボタンの位置や大きさが、いかに重要かということがわかりやすく展示してあって面白いと思いました。産業革命の後、上流階級ではボタンの位置によって階級がわかる時期もありました。階級が上がるほどにボタンは前()から後ろ(背中)に行き、一人では脱ぎ着出来ないものになっていったようです。ボタンが社会の象徴だなんて「たかがボタン、されどボタン」です。

  
 サンローラン、ディオール、シャネルら、現代のデザイナーの服も展示されていましたが、その幾つかは18世紀や19世紀の服と並んで展示されていて、その2着のボタンの位置や服のデザインに共通性を見ることが出来ます。それらを見比べてみると、彼らが過去のものを熟知していたこと、それを彼ら独自のスタイルに見事に変容させて現代に活きるスタイルにしたこと、がよくわかります。

  ボタンをフォーカスして、モードの移り変わりを探るという面白い展覧会だと思いました。国祭のパレードでオランド大統領を見る代わりに、3000個のボタンを見てしまいました。


2015年6月9日(火)
シェイクスピア書店

  私は「本」気狂いで、俗にいう活字中毒者です。部屋の中では、チェンバロの横に一冊、テーブルに一冊、ベッドの上に別の一冊・・という具合に、同時進行しながら数冊を読んでいます。夜、眠る前は本を読まないと眠れません。もちろん、本屋は大好きです。素晴らしい本屋の中を歩いていると幸福感に包まれて「今、ここで命が尽きてもいい」とさえ思います。この店にとっては迷惑な客です。

   パリには、世界で一番有名な英語本書店「シェイクスピア書店」があります。(左下写真) 今のお店はセーヌ河をはさんでノートルダム寺院の目の前ですが、第2次大戦まではオデオン座の近くにあり、初代店主は「シルビア・ビーチ」という女性でした。店にどれだけ居座って本を読んでもシルビアは何も言いませんでしたので、ここはいつも若い作家達の溜まり場でした。ヘミングウェイやフィッツジェラルドら、アメリカ人で青年時代をパリで過ごした「ロスト・ジェネレーション」らが常連でした。そして、ここでは当時、巷で発禁になっていた本なども読むことが出来ました。ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」が英米で出版を断られた時も、シルビアが書店から自費出版しました。第2大戦中、ドイツの士官がジョイスの原稿を渡すように命じましたが、シルビアがこれを拒んだため、本屋は閉店に追い込まれました。しかし、その後に、ジョージ・ホイットマンというシルビア・ビーチと親交のあった人物が、彼女の死後に彼女の蔵書を買い取り、その意志を継いで、第2の「シェイクスピア書店」を今の場所に開きました。ホイットマンは若い頃、世界中を放浪する自由人でしたが、本屋を持ってからは放浪をやめて毎日本屋にいました。世界の放浪から物語や想像という活字の上を放浪する生き方に変えたのかもしれません。
  書店がホイットマンの時代に入ると、店ではヴェトナム戦争への抗議集会が開かれたり、反体制活動家を本の間に匿うということもあり、ロスト・ジェネレーションからビート・ジェネレーションに時代が変わって行きました。

   この書店は古い修道院を買い取ったもので、ボロボロの店内は床も壁も本だらけでカオスです。もしパリで地震があったら(パリでは地震は起きませんが)店内にいる私たちは「震度1以下」でも即刻あの世行きです。この書店では、2階の壁に書かれた「Be not inhospitable to strangers lest they be angels indisguise (見知らぬ人に親切にしなさい。彼らは変装した天使かもしれないから)」というホイットマンの言葉通り、世界中からパリに来た、貧しい若い書き手達に書店の2階を宿として無償で提供しています。しかし、その代わりに「滞在中に短い自伝を書くこと」「一日一冊図書室(後述)の本を読むこと」そして数時間、彼らは書店で本を運んだり掃除をして働かなければなりません。ホイットマンはあるインタビューで「ここに泊まった人々」は4万人にのぼると語っています。そして、その中から多くの小説家やジャーナリストが生まれました。

   音の狂ったアップライトピアノを弾く人 私が留学して来た頃、年老いたホイットマンは、気難しい表情に深いシワを刻んでレジのところに座っていました。その横を通り、2階に上がると「シルビア・ビーチ記念図書室」があり、そこにはヘミングウェイやフィッツジェラルドも読んだかもしれない、初代シェイクスピア書店の本が置かれています。本を開くと古い紙の匂いがして、もうこの世にはいないだろう過去の人々の書き込みを見つけることもあります。隣の部屋では、誰でも弾くことの出来る音の狂ったアップライトピアノがあり、その傍では知らないもの同士がチェスをしたり、思い思いに本を読んだりしています。音の狂ったピアノから流れる音は不思議に優しく、夜、窓から見えるノートルダムを見ながら本を読んでいると、気持ちが安らいでいくのがわかります。そんな時、ホイットマンが彼の友人に語った話を思い出します。「ノートルダムを見るとね、この店はあの教会の別館なんだって気がするんだ。あちら側に上手く適応出来ない人間のための場所なんだよ」

   ホイットマンは数年前に亡くなりましたが、今も書店は「strangers(見知らぬ人)」を2階に泊めて、日曜には「茶会」、月曜には「詩の朗読」、小さなコンサートや小説家の会合もあり、ホイットマンの生き方に賛同した多くの人々が連日世界中からやってきます。

   電子書籍なども出てくる時代ですが、パリでは今だに、多くの個性的な本屋や古本屋が健在です。
                                (写真右下: 書店から見たノートルダム寺院)

2015年3月31日(火)
ショパンとパリ

 ショパンが最後に暮らしたアパート   パリの中心にある「ヴァンドーム広場」は高級宝飾店が立ち並ぶ広場として有名ですが、この広場に面したとある部屋で、1849年10月17日にフレデリック・ショパンは39歳の短い生涯を閉じました。3月はショパンの生まれ月です。 

   ショパンが亡くなった部屋がある建物(写真右 ショパンが最後に暮らしたアパート)は、現在、宝飾の「ショーメ」が入っています。1780年にショーメを創設した「ニト」はナポレオン御用達の宝飾職人として活躍しました。宝飾は権力の象徴であると考えていたナポレオンは、ニトに思う存分に制作させ、彼の制作する宝飾は各国の王侯貴族達のあこがれとなりました。
 
 フランスのブランド宝飾店はそれぞれに違う
種類の顧客を持ちますが、ショーメはナポレオン時代からの流れをくみ、今も各国の王侯貴族を顧客に持ちます。
特に「ティアラ」が有名で、ヨーロッパ各国の王族達の車が建物の裏に横付けされ、内庭にある入り口から「ティアラの部屋」と呼ばれる部屋に入って行きます。

                                               

'ティアラの部屋'の入り口

  ショパンは1831年にパリに来てから、この部屋に住むまでに、市内で7回引っ越しをしました。今もそのアパートがいくつか残っていますが、彼はいつも部屋に花を飾る事を好みました。「すみれの花束を一束買わせて下さい。家に帰った時にちょっぴり詩的な気分を味あわせてください。寝室に向かって通り抜けるほんの一瞬のことです」という一節も残しています。





  ショパンが最初にしたコンサートのサル・プレイエル "ティアラの部屋"への入り口

 21歳でパリに来たショパンは、ある夜コンサートで聴いたプレイエル社のピアノに魅了されます。そして、プレイエル社の2台目社長「カミーユ・プレイエル」にその才能を認められ、プレイエルとの長い親交の歴史が始まりました。1832年にはプレイエルの主催でコンサート・デビューを果たします。この時の「サル・プレイエル」は現在の「サル・プレイエル」ではなく、パリ9区にある150席ほどの小さなサロンで、現在はレストランになっています。翌年、1833年のコンサートでは、フランツ・リストを含む3人で「バッハの3台の鍵盤のためのコンチェルト」を演奏しています。ショパンとリストの弾くバッハ・・どのような演奏だったのでしょう。。(
写真右 ショパンが最初のコンサートをしたサル・プレイエル)

                                                
  マドレーヌ寺院
 1849年10月30日に執り行われたショパンのお葬式はヴァンドーム広場からすぐの所にある「マドレーヌ寺院」(写真右 マドレーヌ寺院)でした。この教会の歴代のオルガニストには「サン・サーンス」や「ガブリエル・フォーレ」がいました。フォーレの有名な「レクイエム」が初演されたのはこの教会です。ショパンのお葬式にはモーツァルトのレクイエムが演奏され、この日、オルガンを弾いたのはリストでした。

  3月、すみれの花が店先に並び始めます。パリにもやっと春がやってきました。

                                            
 
                                                                                                                                                                                   
 
                                                                                           

2015年2月24日(火)
ホグウッド氏所蔵楽器オークション

 

  先日、ご近所の香水屋さんに立ち寄ったら、エラールのスクエアピアノの上に香水が並んでいました。「このピアノは、弾けるんですか?」と聞いたら、お店のおじさんが嬉しそうに「もちろん、弾けるよ。昼はピアノの上に並んでいる香水を引き立ててくれるけど、夜になるとこいつが主役になるんだ。ここに(と譜面台の左右にある2本のキャンドル立てを指差して)キャンドルをともして、サロンコンサートをすることもあるんだ。素晴らしい音色だよ」と話してくれました。

 

  とある友人の家には、何代か前のご先祖様が買ったエラールがあります。
  ふたの内側に美しい
エラールのマークと「1855年」の年が見てとれます。こちらも現役バリバリの素晴らしい音色です。

  「コンセルヴァトワールの学生達が弾きたい時は、いつでもいらっしゃいね」というご家族のご好意に甘えて、いつも学生が入り浸っています。

  この家はものすごく大きくて、長い付き合いの私も、何部屋あるのか把握していません。昨日もこの家に行くと、居間に子供達がいたので、私が「元気~?お父さんかお母さんは、どこの部屋にいるの?」と子供達に聞いたら「電話してみるね」と携帯を取り出したので、びっくりしました。

  「私がかけてみるから、大丈夫よ」と私がかけましたが、周りの部屋から、私のかける携帯の呼び出し音は聞こえませんでした。


「エラール」社のネームプレート。1855と書かれています。

 こういう大きなお屋敷は本当にお掃除が大変なので、私が知る限り、家族は3種類のキャラに分かれます。
 (1)自分たちが平生使う部屋だけ掃除して、
残りの部屋には鍵をかける。(2)お屋敷を愛して(ヨーロッパ人は家に凝る人が多い)掃除に命をかける奥様がいる。或は奥様と、お掃除のために雇われた人が「頻繁」に来る。
(3)もうあきらめて「少々の埃じゃ死なないわ」とおおらかに生きる。

 

 
  最後に、去年の9月に亡くなった「クリストファー・ホグウッド氏」の鍵盤コレクションのオークション案内をお送りしたいと思います。


 HP
内にある「NEWS」の下左端にある「The Christopher Hogwood Collection」をクリックすると、
   楽器の写真が出てきます。

 http://www.gardinerhoulgate.co.uk/

   オリジナルを含む、26台の楽器がオークションにかかるようです。
  26台もの楽器が置けていたなんて、
すごいです。

  ホグウッド氏のお宅を訪ねた彼のお友達も、玄関を入ってから携帯を鳴らしたのでしょうか・・・。

  

 

2015年2月10日(火)
ブリュージュとパリ

  毎日、寒い日が続いています。パリに戻った次の日に、日本で一緒に旅をした「ドロテー・ミールズとパリの仲間たち」と、ブリュージュで再会しました。ちょうどブリュージュに滞在していたバス歌手のペーター・コーイ氏とテナーのトーマス・ホブズ氏も合流して、早朝まで大盛り上がりに盛り上がりました。














(左からパトリック、ペーター・コーイ、トーマス・ホブズ、ハルムヤン)

 数日のベルギー滞在からパリに戻り、秋から冬にかけてお店に並ぶチーズ「モン・ドール」を食べると、不思議に、ずっとパリにいたような気持ちになり、またこちらの生活がスタートします。

                     










(モン・ドール チーズ)


 
 パリは1月に起きたテロへの警戒が続いていて、飛行場でのパスポート検査も厳重で、街のデパートなども入口で金属探知器によるチェックが行われています。友人に会うと「まだ、これでも普通の生活に戻ったのよ。事件が起きて、犯人が逃亡してた数日間なんて、パリ市内は人がいなくてゴーストタウンのようだったわ。今まで見たことのない光景ですごかったわよ。」と言っていました。新聞社が襲撃された後、ユダヤ人食料品店で立てこもり事件がありましたが、あの店に私はユダヤ人の友人と行ったことがありました。事件があった時、私は日本にいましたが、行ったことがある店がテレビに映り、警官に囲まれているのを見るのは、なかなかショッキングな光景でした。 

  今回の事件で「言論の自由」ということが叫ばれていますが、私はもっと基本的な「知る自由」について考えてしまいました。この世界には、まだ十分な教育を受けられない子供達、あるいは政府の偏った教育の中にいる子供たちが沢山います。殺人は我々の社会において許されることではありません。しかし問題は、そのフランスに暮らしながら、犯人らが受けた教育にも大きな偏りがあったのではないか、という指摘がでたことです。私の友人に二人、中東やアフリカから来た家族の子供達が、この国に馴染めるように援助する仕事をしている人達がいます。自国の伝統や宗教を守ることは大切なことです。しかし子供達が地元の子供達と馴染み、学び、本を読み、情報を得る 自由を持てることが、今、とても大切な時代に来ていると思います。

  以前、ある南米の街で公立学校を建設しかけながら、途中で頓挫した建物が沢山ある街を見ました。ひと握りのお金持ちは子供を私立にやり、公立に行くような子供達に政府はよい教育をする気はないのだと街の人々は言っていました。国民が知識を持つことは政府の破滅に繋がるからだというのが彼らの意見でした。子供達が知的好奇心を持つためには、学校に行ける時間が持てること、働いたりせず彼らを貧困から守ることも大切になってきます。フランスの中には今、この問題を指摘する声も上がってきています。「知的自由」を子供たちが一人でも多く持てれば、どんなに世界から確執が消えなくても「殺し合う」選択以外の選択を選ぶ人も増えるのではないか、と私は思 っています。先日、ヨルダンで死刑になった「リシャウイ死刑囚」の記事を読む中で「・・読み書きが出来ず・・」という一文に胸が痛みました。

 

2014年12月25日(木)
ドロテーとパトリックとハルム・ヤン

  今日はクリスマスです。 こちらのクリスマスは日本のお正月のようなものです。クリスマスは家族と、新年は友人とパーティです。

 もうすぐ日本に行く「ドロテー・ミールズとパリの音楽家たち」も、今日はそれぞれの家族と過ごします。

 ドロテーは地元ドイツで、チェロのハルムヤンは、フランスの田舎に住んでいますが、生まれはオランダです。今日は、彼の家族とともに、彼のお兄さん家族が住むオランダに帰りました。フルートのパトリックは、彼の故郷ベルギー・ブリュージュで、フランス人の彼女と共にクリスマスを過ごします。 

 彼らは、すでに何回も日本に行っていますが、日本が大好きです。「何故日本が好きか」と聞いたら「人が好き」「日本芸術の驚異的なレベルの高さ」。。そして「何を食べても美味しい」と言っていました。。。確かに。。

 そういえば、来日が近いので、打ち合わせなければならないこともあり「クリスマスなのに悪いねえ・・」と電話をすると、まず「メリークリスマス」、そして会話の中で遅かれ早かれ「昨晩のイヴは何食べた?」という話になるので、やはり音楽家は食いしん坊な人が多いのだと、今更ながら納得しました。イヴはもちろんご馳走を食べます。ちなみに、私は昨晩は「トナカイ」を食べました。クリスマスにトナカイを食べるというのも、ちょっとシュールな気もしますが、美味しいです。ここではよく食べます。でもサンタを乗せてソリを引張てる、あのトナカイと同 じ種類かどうか、はわかりません。 

  ところで、皆様は、「ドロテー・ミールズ」の声をお聴きになったことがあるでしょうか? イノセントで透明感のある、一度聴くと何回も聴きたくなる、私の大好きな歌手です。あまりに自然なので、聴いていると、今自分が都会の真ん中に居ることを忘れてしまいそうです。しかし、いくら美しい声を持って生まれても、「都会の中に居ることを忘れそう」だと人に思わせるには、その声に裏打ちされたテクニックと、質の良い感情表現が必要になると思います。
 偉ぶらない人で、でも舞台に立つと「やはりこの人は歌手だなあ」と思わせるオーラを背中にしょって、そんな彼女を私は、とても素敵な歌手だと思っています。 

  「パトリック・ビュークルスとはどんなフルート吹きか」と、もし人に尋ねられたら、速攻(!)「音が豊かで大きくて、ブレスが長い」と、まず答えてしまうかもしれません。その「豊か」で「大きく」て「長い」彼の息から作られる、たった一音のロングトーンは、実に表現豊かで、しなやかな色気があって、初めて聞いたとき「この一音で女性にもてるだろう」と思ってしまいました。数年前にヨーロッパのテレビで、コレギウム・ヴォカーレ・ゲントの「バッハ・ロ短調ミサ」を見ました。オケの後方から、聞こえるこの一音は、それだけで、その楽章の音楽を表現していて、実に見事でした。指揮者のヘレヴェッヘが彼を気に入る気持ちがわかります。ロングトーンについてたくさん書いてしまいましたが、「一芸は道に通ず」と同じく「一音は音楽に通ず」です。彼が昔々(15年?)、テレビで放送された「魂よ、あなたの香油は」(1月のコンサートプログラムにも入っています)のアリアは、ニューヨークフィルがフェイスブックで今年の復活祭にこの動画を投稿していました。YOU Tubeでも見ることが出来ます。

   チェロの「ハルムヤン・シュビッテルス」は、パトリックの大親友で、同じく「コレギウム・ヴォカーレ・ゲント」のチェリストです。パトリックが「動」なら、ハルムヤンは「静」の人でしょうか。。 冷静で、通奏低音には適任です。フランスの田舎の「隣の家が見えない」ような、豊かな自然の中で暮らして、仕事の時だけ、都会に出てきます。ヨーロッパにはこういう音楽家が沢山います。 彼は「コレギウム・ボカーレ・ゲント」と、同じくヘレヴェッヘが率いる「シャペル・ロワイユ」でも弾いています。人間的にもチェリストとしても、私は彼と一緒に通奏低音を弾くのは楽しく、そして安心できます。 

 1月のツアーは楽しくなりそうです。。

 

2014年12月6日(土)
聖ニコラ
 

  10日ほど前に、日本からパリの友人に電話をしたら「パリは寒いかって?寒いかな~?でもまだ本格的な冬じゃないわね。これからもっと寒くなるわ」って言ってたので、軽い気持ちで帰ってきたら、街は四捨五入すると「零度」に近い「4度(日中)」。昨日からやって来たブリュッセルに至っては、すでに「1度」夜は「零下」です。「これでまだ寒くなるって? いつ??」

   冬の教会での仕事はなかなか過酷です。暖かい教会もたまにありますが、古い教会はすきま風も入るので、足元が冷たく、なんとも寒いです。 しかしある時、某ヨーロッパ人の友人が言いました。「ボク、真冬の教会でも手はいつも暖かいんだ。しょっぱなからスカルラッティの速い曲でも大丈夫。日常でも寒いってあまり感じたことないな~」。

  ショックでした。これは、私にとって大きなハンディです。 ヨーロッパでは体温も演奏に関わってくるなんて・・  

  西(或いは、全域?)ヨーロッパの人たちは、どうも日本人より体温が高いようです。長い年月をここで暮らして、数え切れない人達と「はじめまして」の握手をしてきましたが、私より手の冷たい人は一人しかいませんでした。 その人は高名なチェンバリストで、素晴らしいテクニックも持っていたので、「手が冷たくても真冬の教会であれだけ弾けるんだ」と握手をした後、ちょっと安心しました。あとで、友人に聞いたら「演奏前に手をお湯につけたりしてるらしいよ」と言っていました。  

  寒いこの時期ですが、街は活気に溢れています。明後日「聖ニコラ」の祝日を皮切りに、師走の「パーティ・シーズン」に突入するからです。

  「聖ニコラ」は「サンタクロース」のモデルになった実在の人物で、ギリシャで生まれてトルコに渡り司祭を努めました。西暦271ー342(或いは280-350)年12月6日没。6世紀に聖人に列せらた後、12月6日が彼の祭日となりました。彼が司祭になる前、彼の家の隣に3人の子を持つ貧しい夫婦が住んでいました。その子供達が辛い状況にあるのを見かねた彼が、ある夜、その家の煙突から金貨を投げ入れたところ、その金貨が暖炉の傍に乾してあった靴下の中に入りました。クリスマスに靴下を下げる習慣はここから来ているそうです。「サン・ニコラ」をオランダ語で言うと「シンタクラース」になり、アメリカに移民したオランダ人達から「サンタクロース」になったそうです。 

  「聖ニコラ」は子供の守護聖人でもあります。ベルギー・ドイツ・オランダ、そしてフランスの一部では、子供達は12月6日と12月25日に2回プレゼントをもらいます。そして、今滞在しているブリュッセルでは「聖ニコラ」を型どった「スペキュロス」(写真:左端のスペキュロスは高さ80cm程もあります)というシナモンの入ったお菓子やチョコレートが街中に溢れます。 子供達にとって1年で一番楽しい月がやってきました。

  

 

2014年9月22日(月)
フランスのストライキ

  
  日本の残暑を久しぶりに経験し、昨夜パリに帰ってきました。
  長旅の末にシャルル・ドゴール空港に着いてみると、広々としたパスポートコントロール(入国審査)に窓口が22あり、そのうちの2つの窓口だけが開いていて、その両方ともが長蛇の列です。 空港内では、エール・フランス航空が乗務員ストライキのため、案内の人が、乗り換えの乗客達に「お乗りになる便が欠航していないかご確認下さい」とアナウンスを繰り返しています。2つの窓口しか開いていないパスポートコントロールやストライキと聞くと、「ああ、パリだなあ」とつくづく思います。

 フランス人はストライキが大好きです。今夏、エクサンプロヴァンス音楽祭で舞台裏方達のストライキがあったことは古楽関係者の間で有名です。

  パリ市内でメトロやバスのストライキに泣かされたのは、まだ我慢出来るとして、人生を振り返って、私にとって最も過酷なフランスのストライキは、数年前のアイスランドでの火山爆発による「航空交通網の混乱」の時でした。

  この時、スペイン・マドリッドで仕事があり、まだ「プラド美術館」を訪れたことが無かった私は、他のメンバーより一日早くマドリッド入りしていました。そして不幸にも、その晩に火山が爆発したのです。翌朝、目を覚ますと、マドリッド発着便は全てキャンセル状態でした。その朝に私たちのコンサートはキャンセルが決まり、私は「プラド美術館」を見ただけで、パリに帰る方法を探さなければならなくなりました。

  まず国鉄の駅に行ってみると、人々が駅から溢れんばかりです。整理券を取ると、まだ300人ほどを待たなければなりません。待ってる人達はお互いに話しながら帰る方法を探します。「フランスに帰る」というグループを見つけたので、「どこまで帰りますか?」と聞いたら、「ピレネーのふもとの村」と言われ、ガッカリしました。日本人にも出会いました。国鉄の駅に来てる日本人は「個人旅行者」ですから、中にはユニークな人達もいます。一人は若い男性で「新婚旅行中です。もう半年が経ちましたが、旅行は2年くらいの予定です。最初南米にいましたが、あまりに暑いので涼しい所に行こう、と南極近くに(なんて、極端な!)行ったら寒いので、ヨーロッパに帰 ってきま した」。。もう一人はおじいさんで、一人でサンティアゴ・デ・コンポステ-ラまでの「巡礼の道」を歩いていたら、疲れてきたので「マドリッドで’足にサロンパスを貼って休憩中’」とのことでした。この方は、火山爆発より「頑張って歩くか、もう電車でサンティアゴまで行っちゃうか」を悩んでいらっしゃいました。

  3時間近くを待って、やっと私の番がやってきました。「ローカル電車でもいいので、パリまでの切符が欲しい」と言ったら、窓口の女性が憐みを湛えた目で私を見ながら「スペイン国境までは行けますがパリまでは行けませんよ。フランス国鉄が今日からストを予定しています。1週間の予定です」(!)「この非常時にストをしますか?」「はい、しっかり決行するそうです」 信じられません・・こんな時にストをするなんて・・フランス国鉄を恨みます。。 でも落ち込んでいられません。。気持ちを切り替えて長距離バスの駅に行きました。ここも溢れんばかりの人がいます。「パリ行はありますか?」と聞いたら、「5日先まで満杯です」と言われ、マドリッド滞在5 日を覚悟 しましたが、その直後、PCを見ていたその人が「あっ!今、2日後のパリ行に5名キャンセルが出ました。このチケットを欲しい方は、パスポートを出して下さい」と大きな声で言いました。私は即座にパスポートを出しましたが、その直後、私の背後、左右、頭上から、彼女に向かって千手観音の如くに一斉に手が出てビックリしました。千手観音と違うのは、そのすべての手に色とりどりのパスポートが握られていたことです。彼女は一瞬その光景にひるみましたが、震える手で、その中から5つのパスポートを選び、その中に私のパスポートもありました。 

  長い一日が終わりました。2日後、18時間のバス旅を終えてパリに帰り、その2日後にキャンセルせずに済んだ日本行の飛行機に乗ると、機内では「今回の災難」について、「どこで足止めされたか」「どうやって乗り切ったか」という話でもちきりでした。 
  日本に帰り、テレビを見ると、ヨーロッパのどこかで足止めされて、その日までワイドショーに出演出来なかったコメンテーターが「飛行機が飛ばなくて・・」と、目の下にクマを作った顔で、視聴者に謝っていました。私は、ちょっぴり彼に親しみを感じました。

2014年8月14日(木)
パリの1日

  旅に旅を重ね、1ヶ月ぶりにパリに帰って来ました。帰って来てみると、もうパリは初秋のかおりがして、朝はめっきりと冷え込みます。2日間だけのパリでの休日です 。もう昨日は嬉しくて眠れませんでした。
  今日は仲のいい女友達とマレ地区を散策してから夕食を一緒に食べる予定です。パリの街はヴァカンスのため多くの店が閉まり、パリ市民より、間違いなく観光客の方が多いだろうと思う光景です。久々に会った友達は、既に田舎でのヴァカンスを終えて、元気いっぱい、目はキラキラ、顔はピカピカで眩しいです。

 
  まずは、友人の家から「サン・ルイ島」を横切り、マレ地区に入りますが、サン・ルイにはパリで一番美味しいと言われているアイスクリーム屋さんがあります。私も大ファンで、この日も多くの人がお店の前に並んでいました。アイスクリーム屋さんと同じ並びにある、サン・ルイ・アン・リル教会は、先日、プティットバンドの日本公演で弾いたチ ェンバリストがオルガニストを勤めています。









     久しぶりにマレに行ったら、「ユニクロ」の紙袋を持った人たちを見かけました。数年前にオペラ座の近くにお店が出来ましたが、マレにも新しくお店が出来たようです。日本ブランドの製品は、値段がお手頃なのに質がとてもよいので、こちらでも大好評です。



  マレ地区に入り、ウインドーショッピングをしながら、「ゲラン」のブティックに入りました。以前から買おうかと悩んでるトワレがあります。 

 値段が高めで、ネーミングがちょっと意味深ですが、素敵な香りです。ゲランの香水は質だけでなく、ボトルが美しいので大好きです。

  香水といえば、数年前に「マリー・アントワネット」の展覧会を見たことがあります。 ギロチンにかかる日まで着ていた服が展示され、彼女とルイ16世の結婚誓約書も展示されていました。誓約書の「マリー・アントワネット」のサインの上に、有名な、彼女が落としたインクのしみがありました。それを見た時、子供の頃に読んだ「ベルサイユのバラ」のその場面を思い出し、ちょっと感動しました。その展覧会の中で、彼女の専属の香水師のレシピに基づいて作られた香水がありました。香水好きの私は興味津々で、直ぐに係りの人にお願いして、その香りを試させてもらいました。驚いたことに、その香りは十分現代に通用する「セレブなマダム」の香りがしました。フランスの香水のレベルの高さに脱帽です。

  パリでは、ファッションもアンティークも、良いものを手に入れようと思うと 、お店の人から「素人さんお断り」にならないように、知識が必要になるような気がします。ファッションは自分に何が似合うか「自分」を知っていることがとても大切です。前述した「ゲラン」は今も世界の香水のトップにその名を置きますが、本店の中に、世界に1瓶しかない、オーダーメイドの香水を作る部屋があります。私の夢は、いつかここでその1瓶を作ることです。いつかその部屋のソファに座った時に最高の1瓶を作れるように、彼らの提案に的確に答えられるように、香り好きの趣味も兼ねて、日々鼻に()磨きをかけます。私にとって、豊かな知識に支えられるおしゃれや道楽は、ヨーロッパの貴族の精神につながります。そしてそれは私の理想です。


2014年7月7日(月)
ミラノ

  今まで何故か、空港のトランジットと駅の乗り換えしか縁の無かったミラノですが、今回、やっと(!) 街を訪れるチャンスがありました。 短い滞在ですが、嬉しいです! 残念ながら天気が良くなかったのですが、有名なドームも見て(写真1)、お隣の歴史あるギャラリーも覘いて、「プラダ本店」というのも見て、なんだか旅行者気分です。 

  ドームから隣の地下鉄の駅[San. Babila)まで、ショッピング街になっているので、少し歩いてみました。

  あちらこちらからストリートミュージシャンの音楽が聞こえ、人々は、美味しそうなジェラートを片手にウインドーショッピングをしています。 その時、不思議な音の音楽が聴こえたので近寄ってみると、お酒のボトル(ワイン、ビール、ウオッカ・・)に水を(アルコールではないと思いますが・・)入れて音程を作り、それを男性が、木琴に使うようなマレット(ばち)で叩いて演奏していました(写真2)
                                          

  楽器(?)の作りは単純ですが、すごい超絶技巧です!曲はリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」です。ボトルの大小や質の違いからくる、響きのアンバランスさに何故か親しみを感じます。やはり、どこの家庭にもありそうな瓶達の響きだからでしょうか・・・

 







  しばらく歩くと、ビックリするようなパフォーマンスを見かけました(写真3)。上で座禅を組んでいる人がお尻にサッカーボールを敷いているのは笑えますが、

  二人の前には香が焚かれ、ヨガの行者のような静謐さを感じなくもありません。しかしサッカーボールを見ると、マジックで騙されてるような気もするし、 人々も遠巻きにこの不思議な二人を見ています。

  残念ながら、ドーム周辺しか見られませんでしたが、地図を見た限り、あまり大きな街のようには思いませんでした。でも、その中に歴史と濃密な文化を感じて、 滞在したら面白い街だろうと思いました。 

 

  ミラノにはダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵があります。とある教会の壁に描かれているため、門外不出で、今は世界中から人々がやって来ます。

  私は数年前にローマの聖アゴスティーノ教会で、やはり永遠に運び出されることのないだろうカラヴァッジョの「ロレートの聖母」を見ました。照りつける午後の太陽の下を歩いて教会に入り、薄暗い教会の中でその絵に出会いました。聖母の美しい顔が薄闇の中に浮かび上がり、その美しさに心底感動しました。そして、このような名画が街の小さな教会にあり、この周辺に住む金持ちも貧しい人も分け隔てなく、ここに来れば、この絵を見ることが出来たのだと思うと、そのような時代のローマを経験してみたかった、と思いました。 

  旅は大好きです。知らないことを知ることはおもしろいし、異国で自分を再考することもあるし、何よりも世界にはいろいろな考え方があり、自分の信じてることはその中のほんの一部にしか過ぎないのだと知る時嬉しくなります。 「違う」ということは素晴らしいことです。

 

2014年6月16日(月)
ブリュージュ カルメル修道院

 
  6月8日(日)は聖霊降臨祭(ペンテコステ)でした。
   聖霊降臨祭は復活祭(イースター)から数えて、50日後に祝われる移動祝祭日(年によって日付が変わる)です。8日に向かって1週間ほどは学校や図書館はお休みです。街のお店でもその週にお休みを取る店もあります。

  この日は、ブリュージュにあるカルメル修道院に来ていました。カルメル会は、12世紀に修道者がパレスティナのカルメル山中に修道院を築いて暮らしたことが起源とされていて、プーランクがオペラ「カルメル派修道女の対話」を作曲したことでも知られています。
 
 ここのチャペルに、一台のポジティフオルガンがあります。
 このオルガンは日本人のオルガン制作家・須藤宏氏が制作されたオルガンです。
 須藤さんの叔母様が、長くこの修道院にいらした縁でこのオルガンを作られました。




 チャペルには、修道院の庭で育てた花々がそこかしこに飾られ、チャペルに入ると心が洗われるような白い壁と、女性らしい優しい花の色が訪ねてきた人々を迎えてくれます。ポジティフオルガンは手作りの音がして、その自然の響きが建物の石の響きと素晴らしく融合しています。その音の中にいると、気持ちが落ち着いて素直な気持ちになります。

 ゲントに留学した1ヶ月目くらいだったと思います。ブリュージュに来られた須藤さんに連れて行って頂いて、初めてこの修道院を訪ねました。その時に、まだご存命だった須藤さんの叔母様にお会いして、軽い夕食を頂きました。その時、少し甘めの卵焼きを出して下さいました。 ヨーロッパの人たちは甘い卵焼きは食べないので、叔母様が出して下さったのは、私が日本人だったことに配慮して下さったのかもしれません。留学したてだったのでその味が心に染みました。 

 振替休日で6月9日()は休日で、その後は夏のバカンスまで、皆もう一踏ん張り働きます。学期末なので学生は試験です。




2014年5月22日(木)
ジワジワと春が・・・

 


 パリにもジワジワと春がやってきました。
 アカデミー・フランセーズの前では
 若者達が熱演を繰り広げ、





 



  パレロワイヤルでは、こんな人も登場しました。













          
 


 先日、北駅で面白いものを見つけました。
 自転車のペダルのようなものがついていて、
 自分でこいでバッテリーを充電します


 駅での待ち時間に運動にもなるし、
 エコでいいと思います。













 街では、春になると必ず登場する、スミレやバラを
 使ったお菓子や砂糖漬けをお店で見かけます。
 こちらは、スミレの砂糖漬け、スミレの香料の入った蜂蜜、
 チョコにお茶もあります。

 









 
   これからヨーロッパは美しい季節を迎えます。






2014年4月8日(火)
バッハ、バッハ、バッハ!

   「シテ・ドゥ・ラ・ムジーク」

  パリ国立音楽院の隣にある「Cite de la musique(シテ・ドゥ・ラ・ムジーク)で、311日から21日の11日間に「オールバッハ」による19のチェンバロコンサートが開催されました。A・シュタイアー、C・フリッシュ、K・ワイス、P・アンタイ、Ch・ショルンスハイム、Ch・ルセ、R・アレッサンドリーニ、B・アラールら、現代のバッハ弾きが集結しました。使用楽器は、3名が奏者所有などのコピー楽器で、残りの奏者は、パリ楽器博物館所蔵の「JH・エムシュ1761」「ルッカース・タスカン1646/1780」「グジョン・スヴァネン1749/1784」でした。私はこれらのオリジナルを聴く機会は時々ありますが、短期間に何人もの奏者が同じ楽器を弾くのは聴いたことがなかったので、貴重な経験が出来ました。 

  私は16日から最終日の間でいくつかの演奏を聴きました。最初はK・ワイスの「平均律第2巻」です。しょっぱなから長大なプログラムを聴くことになりましたが、練り上げられた内容の濃い、そして歌心のある彼の演奏には最後まで飽きることがありませんでした。次の日はP・アンタイでした。彼は、静かな足取りで舞台に現れましたが、演奏が始まると「ジキルとハイド」の如くに変貌して、瞬発力のあるスケールの大きな演奏で我々を魅了しました。アイデアは緻密でありながら音楽の流れは雄大です。演奏が終わった後、興奮する聴衆にゆっくりと頭を下げて、また静かに舞台を去って行きました。。

  そして実は、私は、今回初めてCh・ショルンスハイムのバッハのソロを聴きました。タッチやアーティキュレーションの種類が実に豊富で、タイミングも素晴らしく、感動的な「トッカータ全曲」コンサートでした。 

  最終日には、前回のブリュージュ古楽コンクールチェンバロ部門で優勝した、23歳のJ・ロンドーを聴きました。才能豊かで、既に自分のアイデアを明確に音に表す手段を熟知しています。次世代を担うチェンバリストになるだろうと思います。彼がコンサート後の挨拶で頭を下げた瞬間、長身の彼のお尻が、その日彼が弾いた「ルッカース・タスカン」にちょっぴりあたりました。びっくりした彼は、すぐに振り向いて「大丈夫だった?」と言わんばかりに、楽器に手を触れた姿が聴衆の微笑みを誘いました。


  私が聴いた奏者のほぼ全員が、最後の挨拶の時に、まるで共演者にするように、手を差し伸べて聴衆の拍手を楽器にも向けたことが印象的でした。それにしても濃厚な数日間でした。。この週は、夢の中でもバッハが鳴っていました。


                                                                           「ルッカース・タスカン 1646/1780」

2014年3月24日(月)
サン・マルタン運河での撮影

 
  「私達の背景、右から2番目の白い建物に、M・カルネ監督の映画の舞台になった'北ホテル’Hotel du Nordが見えます」

  来年、1月に来日する「ドロテー・ミールズとパリの音楽家たち」の「音楽家たち」3人で、チラシとプログラムのための写真を撮りました。「やっぱり、別々より3人一緒に写ってる写真の方がいいよね」というわけで、パリのサン・マルタン運河のある地域に集合です。カメラマンをお願いしたのは、運河の近くに住んでいる、パリ高等音楽院(CRR)トラヴェルソ科教授で友人のエレーンです。

 
 天気の良い日曜日です。運河のあたりは家族やカップルで散歩する人達や観光客で賑わっています。運河に掛かる橋の上で黒服に楽器のケースを持った私達は、人々の好奇の視線を集めながら、皆さんの通行の邪魔をしています。中には気持ちよくジョギングする人々もいて、私達に気づいた時は既に手遅れのケースも。 「えっ!撮影?ごめんなさい!止まらない~」 チェロのヤンが「いいんですよ。よい日曜を。」などと声をかけます。 




 久しぶりに会った私達は嬉しくて、冗談ばかり言って撮影がはかどりません。それにしても真面目な顔をして、'口にチャック'をして沈黙を守らなければいけない時ほど、頭の中で冴えた冗談が浮かぶのは何故でしょう。。 

 「上手く撮れるかしら。。」と心配するエレーンに、「シャッターを押す瞬間に僕たちが目をつむらないように、1、2、3って声をかけてね。1でシャッターを押すんだよ。あっ、テンポはメトロノーム72でね。」 「・・・」 (音楽家の撮影って・・)

  出来上がった写真を見ながら、誰彼となく「パトリックの四角いケースは、音楽関係者でないとフルートのケースってわからないんじゃない? バゲット(フランスパン)を同じ長さに切ってケースの代わりに持ってる写真も撮れば面白かったね。」 
 本当に・・今日の記念に撮ればよかったです。

  撮影後、皆でエレーンの家に行き、まずは乾杯した後、パトリックの手料理で遅い昼食を食べました。
  昔は全く料理の出来なかった彼が、何故かある時、突然、啓示のごとくに閃いて料理学校に行き始めました。刻々と腕を上げてきています。

  そして、この日の「ベスト・ショット」に、「私を除く」3人が選んだのが、この1枚。「今日のことをブログに書くの」と言って手持ちのIPadを構える私を、すかさず逆どりされた一枚です。



 今日このブログに登場していないコンサートの主役「ドロテー・ミールズ」に、いつか、ブログに一人で登場して頂こうと思っています。その時はもちろん! いつもの「舞台上」の歌手としての顔だけではなく、素顔の彼女も沢山織り交ぜながら。。彼女お得意のユーモアもたっぷりお届けしたいと思います。

 

 最後に、今日一番の功労者、エレーンに、沢山の感謝を送ります。   ありがとう!!エレーン!!!


2014年3月3日(月)
グスターフ伯父さん

  
  ゲントで学生時代からお世話になっている家族の一人が亡くなったので、今ベルギーに滞在しています。

  この家族には5人の子供がいて、私が留学した時は既に上の4人は結婚して家を出ていましたが、まだ5番目が家にいて、私を6番目の子供のように受け入れて下さり、クリスマスや新年、家族の誕生日を共に過ごしてきました。亡くなったのはこの家族のお父さんのお兄さん、子供の私からすると「伯父さん」にあたります。97歳でした。

  早くに奥様が亡くなって一人暮らしでしたが、音楽が、特にバッハが大好きで、ユーモアにあふれた、明るい、思いやりの深い人でした。90歳を前にしてホームに入りましたが、95歳の時に恋をしました。お相手は89歳の女性で、音楽や絵が大好きな女性です。

  恋をした伯父さんは、少年のように幸せそうでした。


  「お葬式の日」サン・セルバース教会



 
  ベルギーでの生活は、この家族抜きで語ることが出来ません。学生時代の演奏活動は順調でしたが、卒業して本格的に音楽活動を始めると、ゆっくりと世間の風向きが変わって来るのを感じました。その時「この人達は、私が卒業したら日本に帰ると思っていたんだなあ」と思いました。それからは、失敗の出来ない厳しい音楽社会の現実が待っていました。来る仕事は全て受け、この国で生き残ることに必死でした。長くこの家族に会えない日もありましたが、彼らはいつもコンサートに来てくれて、難しいコンサートの日を忘れることなく、いつも心に留めていてくれました。

  伯父さんのお葬式で、久しぶりに家族が再会しました。 伯父さんはカトリックだったので、亡くなる日、神父様を呼び、最後の祈りを終えた後、ベッドの上で静かに自分の好きだった歌を口ずさんで、その歌の最中に息を引き取ったと聞きました。「見事な最後だねえ」と皆で泣きながら笑いました。




  Nonkel Gustaaf! Ik zie je later nog
 グスターフ伯父さん、いつかまた会いましょうね。

  言いつくせない感謝の気持ちでいっぱいです。 










2014年2月14日(金)
パリのバレンタイン
  
  女子にとって、大イベントであるバレンタインがやって来ました。街中は大きな盛り上がりをみせていることと思います。 チョコの本場パリは、日本のような騒ぎにはなりませんが、お菓子業界は売り上げチャンスのイベントなので、ウィンドーの色を赤やピンクにしてバレンタイン気分の盛り上げをはかります。

   こちらでは、バレンタインは女性から男性ではなく、一般的には男性が女性に花を送ります。14日には赤いバラを抱えた男性が街を歩く姿を見かけます。

  日本でも近年、「告白は男性から」というのは、死語になりつつあると思いますが、女性の自立心が強いフランスでは、既に化石化して地中に眠る死語となっています。そして特別、この日を共に過ごさなくても「14日の都合が悪ければ、15日にしよう」と現実的に考える人々です。



  駅のパン屋の前を通ったら、日頃は見かけ無い、しかしパリにしては投げやりなデコレーションのパンがウィンドーに並んでいました。多分、バレンタインを前にして出てきたものだと思いますが、よーく見ると、ハートの真ん中に焼き加減で出来たらしい、ひび割れが入っています。私は「縁起が悪そうだから、買うのはよそう」と思いますが、フランス人は気にせずに買うだろうと思います。 

 

 

 国が変わると大切にする記念日もかわります。チョコを買った皆様、楽しい14日をお過ごしくださいね!
 

2014年1月7日(火)
お雑煮
  

  世界のどこでお正月を迎えても、新年になると思い出すのは大学に入った最初の冬です。

  兵庫県の小さな街から東京の大学に進み、一人暮らしを始めた最初の年は、全てが目新しく、緊張と興奮の連続でした。

   冬休みが近づくと、地方から出て来た友人たちが、自分の街のお正月の話を頻繁にするようになり、そこで皆で盛り上がったのが「自分の故郷では、お雑煮に何を入れるか」という話でした。地方によって、こんなにもお雑煮に違いがあるなんて() 「うちのお雑煮は、お餅の中には餡が入ってるんだよ」という話を聞いた時はびっくりしました。  カルチャーショックでした。 

  お雑煮について盛り上がった十代の私たちは、その後、結婚して「夫婦、どちらの故郷のお雑煮を正月に食べるか」という問題に直面し、今はその味を子供達に継承する歳になりました。 

  食べ物は大切な文化だと思います。皆様はどのようなお正月を過ごされましたか? 

  本年が皆様にとって、健康に恵まれた素晴らしい年でありますようにお祈りしております。

  本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

 

 年末年始パリのイルミネーション


2013年12月2日(月)
某デパートの食品売り場
  食欲の「秋」は 終わりに近づきましたが、クリスマス、忘年会に向けて、まだまだ胃腸の忙しい時期が続きますね。
  グルメ大国「日本」に来た外国人がびっくりすることの一つに、「デパ地下」という愛称で呼ばれる「食品売り場」の品揃えの豊富さがあります。私の友人は初めて「デパ地下」を訪れた時、「わっ、惣菜の博物館みたい!」と思ったそうです。 

  そこで、今日はこちらのデパートの食品売り場の様子をお送りしたいと思います。こちらの食品売り場は、一般的に地下には無くて、生活用品等が売っている棟とは別の建物にあります。 某老舗デパートの売り場を見てみると、フランスらしく「フォアグラ・コーナー(3棚とも)(写真)

写真 (クリックすると拡大します)

 「フロマージュ(チーズ)・コーナー」や60種類ほどのお茶がある「お茶・コーヒー・コーナー」(写真1)
写真1 (クリックすると拡大します)

 食品は(国別)ヨーロッパやアジアのコーナーもあり、私は美味しくて包装も美しい「イタリア」のコーナーが大好きです。日本食のコーナーは、地域特産(先日、京都北山の’茶の菓’を発見。関西人としては和みます)などのマニアックなものもありますが、驚いたのは、このお味噌(写真2)

(写真2)


 そしてよく見ると「混ぜる」と「かける」が違うこの製品達(写真3)。。

( 写真3)

 どんな味になるのか、日本で試された方がありましたら感想をお聞きしたいです。。食品売り場の地下は、もちろん(!)フロアを埋め尽くす「ワイン」群!(写真4)。

(写真4)

こちらは、ワイン王国らしく「国別」ではなくフランス国内「地域別」に分かれて陳列されています。



2013年11月6日(水)
ある小雨降る日の出来事

  サン・シュルピス教会
  
  先日、小雨が降る寒い日に、サン・シュルピス教会の前の広場を歩いていると、教会の前に人だかりが出来ていました。

  様子からしてお葬式だと思い、近寄って、その中の一人の女性に聞いたところ「パトリス・シェローのお葬式」だと教えてくれました。シェロ―氏はオペラや劇場での演出家として有名ですが、「王妃マルゴ」の映画監督としても日本で知られています。

  マスコミがカメラを構える中、大統領オーランド氏を始め、続々とテレビで見たことのある顔ぶれが教会内に入って行きました。

  その時、数年前の、やはり小雨が降る日に偶然見かけたお葬式を思い出していました。その日、郊外に仕事に行く前に軽く腹ごしらえをしようとサントノレ通りに行き、レストランを出た後、電車までの時間をウインドー・ショッピングをしながらぶらぶらとしていました。ふと見ると、サントノレ通りにある「サン・ロック教会 St-Roch」の前に写真が置かれていて、中ではお葬式が行われているようです。サン・ロック教会はコンサートの催しが多いので、「ここでもやはりお葬式をするんだなあ」と思いながら写真を見ていると、その写真の主に見覚えがあるような気がしてきました。俳優でもないし・・と考えていて、思い当たりました。ファッション界の「イヴ・サンローラン」でした。

  驚いて立ち止まり、周りを見ると、確かに数人の警官が立っています。しかし、ここに来るまでに立ち寄った数件のお店でも、彼のお葬式を話題にする人もいなくて、通りはいつもどうりでした。そして、その時、偶然にも教会の扉が開き、数人の人に先導されながら、国旗に覆われた棺が出てきました。世界中に名を知られた「イブ・サンローラン」がこの棺の中に眠っているとは、とても信じられません。そして、棺に続いて1人の女性が出てくるのが見えました。その手には一本の麦を持ち、麦の瑞々しい緑が、棺と対照的な「生命の色」に見えて、今も私に鮮烈な印象を残しています。

  驚いたのは、お葬式が終わった数分後のサントノレ通りが「黒服のパリコレクション」とも形容したくなるような非日常的な光景で、奇抜なドレスのモデル達やファッション関係者に見惚れていて、私は危うく電車に乗り遅れるところでした。

   その翌朝、少し好奇心もありサン・ロック教会を覗いてみました。教会中が何千本という百合の花で埋め尽くされていて、人々がそれを片付けている最中でした。むせ返るような匂いと、その白さに別世界に来たような錯覚を持ちました。そして、その日報道されたテレビの中で、彼の棺の後について出てきた女性が、女優の「カトリーヌ・ドヌーブ」であったことを知りました。

  
教会に花を届ける女性
 

 

2013年10月16日(水)
パリ・今季のバロック・コンサート

  夏のヴァカンスが終り、秋始まりのヨーロッパでは子供達が新しい1年を迎え、音楽ホールでも今季のコンサートプログラムが始まりました。今日はパリの「2013(9月)-2014(7月)」の大まかなコンサート情報を、お送りしたいと思います。
  オペラが比較的盛んなパリでは、「国立オペラ劇場(通称 パリ・オペラ座)」の他に、「シャンゼリゼ劇場」、「オペラ・コミック」を中心に、それ以外の小さな劇場でもバロック・オペラの公演を見つけることが出来ます。

  今年の「オペラ座」では、クリストフ・ルセ指揮のヘンデル「アルチーナ」、リナルド・アレッサンドリー二指揮のモンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」、マルク・ミンコフスキー指揮のグルック「アルセスト」の3本のオペラが、それぞれ2~3週間の公演期間を持って開催されます。「シャンゼリゼ劇場」では、バロック・オペラをオペラ座より短い「数日公演」、或いは「コンサート形式での公演」などで、聴くことが出来ます。 今年度は指揮者のジョン・クロード・マルゴア、アラン・カーチス、エルヴェ・ニケ、エマニュエル・アイムらによって「モンテヴェルディ」、4本の「ヘンデル・オペラ」、「ラモー」の6公演が予定されています。「オペラ・コミック」では、ウイリアム・クリスティのラモー「イアンとアムールの祭典」が6回公演で行われます。

  ソロ・室内楽分野での今季のトピックスは、国立音楽院の隣にある音楽ホール「シテ・ド・ラ・ムジーク」で、来年の春に、国立音楽院の教授陣を中心とした「BachTemperaments」というチェンバロ・フェスティバルが開催されます。Ch.ルセ、K.ヴァイス、B.アラール、P.アンタイ、A.シュタイアーらを含む、ヨーロッパ中から集まった、総勢17名の豪華メンバーによるチェンバリストのリサイタルが10日間に渡り行われます。さらに最年少で登場するフランス人で、昨年のブリュージュ国際音楽コンクール1位のジャン・ロンドーはなかなか興味深い経歴の持ち主です。ジャズを学び即興を得意とし、哲学に興味があり、ソルボンヌで音楽学の学士号を取得しています。

 その他にも、音楽ホールや教会でバロックのコンサートが催されますが、J.S.バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」で優れたCDに送られる「ディアパソンドール・2011年度賞」を受賞したヴァイオリンのアマンディーヌ・ベイエールが、チェンバロのピエール・アンタイと2014年の1月に、ロン・ティボー国際コンクールの会場でもある「サル・ガヴォ(Salle Gaveau)」で、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロオブリガートによるソナタ」のコンサートをします。この宣伝はバロックでは異例の1年以上前から行われていて、コンサートへの期待の高さを示しています。二人はこのコンサートと前後して、毎月のように国内外で同じプログラムのコンサ ートも決まっていて、今人気急上昇のベイエールと円熟期を迎えたアンタイが作り上げる次のバッハに期待が集まっています。

 

2013年9月27日(金)
愛の重さに耐える橋

 

 愛する人と永遠の愛を誓う・・・これは国境を超えて、世界中の恋人が望むことかもしれません。


 その誓いが明日ダメになっても、もしや数時間後だったとしても恐れません。「今この一瞬!その想いに陶酔する自分が好き!」という人だっているかもしれません。

 
 
 (錠をつけた後、記念撮影する二人)


  誓い方や願い方にも国民性が出ると私はひそかに信じています。日本では「短冊に願いを書いて、木の枝に結ぶ」などが一般的でしょうか。地方には、短冊に恋の願いを書く「恋結び祭り」というのもあるそうです。ほのぼのした名前で、食いしん坊の私は何故かこの祭りの名を聞くと「桜餅」を連想します。しかしヨーロッパに来れば短冊は「南京錠」になり、木の枝は「鉄のフェンス」になることもあります。

  
 (子供だって、つけちゃいます)

 

  ここルーブル美術館とフランス学士院を結ぶ橋「ポン・デ・ザール」では、世界中のカップルが二人のイニシャルを刻んだ南京錠を橋の欄干にかけ、鍵をセーヌ川に投げて永遠の愛を誓います。この「愛の南京錠」の起源はイタリアだとか中国だとか言われていますが定かでなく、最近では「鍵」もセーヌに投げず、家に持って帰るのが流行っているそうです。(なぜ家に??)  パリ市政が「景観を損なう」という理由で錠を取外しますが、世界中からやって来て錠をつけるカップルの前にはお手上げ状態です。

   (結婚式当日に訪れた二人)

 

 天気の良い日には、ピクニックのようにパンを食べたりワインを飲んだり、学生達が「誕生日パーティ」をしているのを見かけることもあります。 絵描きもいればアコーディオン弾きもいて、皆別々のことをしているのに何故か集まる、大家族の居間のような情景が橋の上で繰り広げられています。

 

 一日の終わりに橋を渡ると、夕暮れのセーヌや遠くに見えるエッフェル塔が美しくて、暫し足をとめて見入ってしまうことがあります。その夕焼けに頬を染めながら大切そうに錠をかける人々を見ていると、この橋を渡ったらもう二度と出会うことのない人々だけど、彼らの将来が幸多いものであったらいいなあ、と思ってしまいます。

  

2013年9月9日(月)
命日が続く二人の作曲家
  

「F.クープランが弾いていたオルガン」(写真下)

  パリ市庁舎の裏に「サン・ジェルヴェ(Eglise Saint-Gervais)」という名の教会があります。この教会に隣接する建物で、1668年11月10日に、フランソア・クープラン(FCouperin)が生まれました。 父親はこのサン・ジェルヴェ教会のオルガにストで、F・クープランは生まれた2日後の11月12日に、この教会で洗礼を受けた記録が残っています。父親から音楽教育を受け,その後、10歳で父親を亡くしますが、その6年後の1685年に、サンジェルヴェ教会のオルガニストに就任します。その後、ヴェルサイユ宮殿でも働くことになりますが、晩年の9年をパレ・ロワイヤル(Palais Royale)の傍に住んでいました。

 そして、このクープランの家から目と鼻の先に、後年、住まいを構えることになった、もう一人の作曲家がいます。ジャン・フィリップ・ラモー(J.Ph.Rameau)です。 ラモーは1683年にディジョンで生まれますが、若き日にパリに出てきています。しかし出版した「クラヴサン曲集」が世に認められず、失意の中で故郷に帰りますが、1723年からはパリに定住します。前年に出版した「和声論」が好評で、ラ・ププリニエール家の後援も得て、彼のパリでの生活は保障されていました。1726年2月25日に、ルーブル美術館の東隣にある「サン・ジェルマン・ロクセロア教会St-Germain l'Auxerrois)」で19歳のマリー・ルイーズ・マンゴと結婚式をあげます。この後、精力的に次々とオペラを発表しますが、「ブフォン論争」に巻き込まれ、ラ・ププリニエールの離婚を期に館も去ることになりました。そして、晩年をパレ・ロワイヤルに近い大きなアパートで妻と2人の子供と暮らしていました。

   
「ラモーが結婚式をした教会内部」(写真左)

                                       
   ここで、話は21世紀に飛びますが、私は去年、ラ・ププリ二エール家に置かれていたオリジナル楽器でラモーを録音しました。録音が近づくにつれ、練習量は増え、それに反比例するかの如く、アイデアが煮詰まる日が続きました。 そんな時、パレ・ロワイヤルのあたりを散歩しながら、頭の中を整理し、時には、近くにある小さな雑貨の店に寄って、お店の馴染みのマダムと世間話をしながら、気晴らしをすることもありました。最近、パレ・ロワイヤルの近くに住んでいた頃のラモーの話を読む機会がありました。毎日家を出て、一人でチュールリー公園やパレ・ロワイヤルを当てもなく歩いていたそうです。ブフォン論争やラ・ププリニエール家を去った彼は、何を想っていたのでしょう。老いたラモーは、「年老いた頭の中で創造は枯渇して、聡明な仕事は難しい」と弱気になることもありました。この「年老いた」というところを削除すると、私が悶々としながら散歩したパレ・ロワイヤルと同じような心境です。これを読むまで、録音の当の作曲家も、260年前に、悶々とパレ・ロワイヤルを散歩していたとは、知る由もありませんでした。制作の速度は落ちましたが、ラモーはそれでもいくつかのオペラをその後に書きあげました。クープランもラモーも、パレ・ロワイヤルの傍で人生を終えました。今ラモーは、クープランがいた「サン・ジェルヴェ教会」から数分の所にある教会に眠っています。クープランは、8区にある「サン・ジョセフ教会(Eglise St-Josef)」に眠っています。クープランの命日は9月11日、ラモーはその翌日の9月12日です。


  「クープランが晩年に住んだ家」

 

2013年8月20日(火)
ブリュージュ古楽音楽祭50周年

   8月2日から行われていた「ブリュージュ古楽音楽祭」が今年で50回を迎え、11日、今年の音楽祭が終了しました。
 音楽祭は「コンサート」と「コンクール」、そして年によっては「楽器展示会」が音楽祭期間中に行われます。
コンクールは、基本的に「オルガン」「チェンバロ」「旋律楽器」「フォルテピアノ」部門がローテーションしていて、今年は「フォルテピアノ」のコンクールが行われ、3位に日本の羽賀美歩さんが入賞されました。おめでとうございます。

 私は、この古楽祭と関わってからの年月が長く、先日は審査委員長のH氏のお宅で、今年の音楽祭の話や、日頃、なかなか聞く機会の無い昔話なども伺ってきました。

 音楽祭は1964年に始まり、1965年には既に「チェンバロコンクール」が行われました。この時期、ヨーロッパでは多くの若い音楽家が古楽に興味を持ち始めていましたが、まだコンセルヴァトワールに「古楽器科」はなく、モダン楽器の学生達が手探りで古楽器を弾いていました。この頃の「ブリュージュ古楽音楽祭」では、そのような状況を念頭に置いて、奏者がお互いの演奏を聞いて情報交換するために、「コンクール」、「コンサート」(60年代は、ほとんどが審査員によるものでした)、「楽器展示会」と「講習会」(審査員や楽器製作家による)を同時に開催していました。60年代後半から70年代初頭は、学生運動などの社会的背景にあるエネルギーもあって、古楽祭 は奏者も審査員も、そして聴衆まで元気が良かったそうです。 


 「忘れられない思い出は・・」とH氏が笑いながら話されます。「ある年のコンクールの結果発表の場で、納得のいかなかった聴衆が、審査員に向かって抗議のトマトを投げたことがある」と。(ヨーロッパ、特にラテン系諸国では、抗議にトマトを投げることがあります。ストラヴィンスキーも「春の祭典」初演の時に、その音楽が理解出来なかった聴衆に投げられました)。会場が騒然となる中で、音楽祭の立役者の一人で、2006年まで音楽祭のディレクターを務めたRD氏が、その聴衆の中から最も過激な男の襟首を掴み、会場の外に引きずり出しました。そしてその翌年、H氏とRD氏はこの音楽祭のコンサートでヴァイオリンを弾くその男性と再会しました。なんとその時彼は、既に有名 なバ ロック ・ヴァイオリニストになっていたそうです。「トマトを投げた男が奏者として戻ってくるなんて、彼自身もバツが悪そうで、お互いになんて挨拶をしたらいいかわからなかった」のです。

右:審査委員長H氏、左:コンクール・ディレクターSD(音楽祭から送られた記念品と)
 私は笑って「じゃあ、いまの聴衆は礼儀正しいですね」と言ったら、「礼儀正しいのは、聴衆だけじゃないよ。コンクールを受けに来る音楽家もおとなしい。」と言われました。「この30年ほどの間に古楽界は大きな変化を遂げた。60年、70年代初頭はヨーロッパが中心だった受験者に、アメリカ人が加わり日本人が増えて、今では世界中からコンクールを受けに来る。テクニックは格段に上がり、古楽器から音楽の勉強を始める世代にもなった。教師の数も増えて習うチャンスも増えた。しかし残念だと思うこともある。それは、多くの若者が先生に頼りすぎる気がするんだ。先生の言う通りにしていれば、音楽家になれると思ってるんじゃないかと思う時もある。先生に 礼儀を正すのは大切なことだし、よい教師は素晴らしいアイデアも持っている。でも自分の目を持つ勇気も必要だ。自分で探し、自分で調べ、音楽以外のことにも接して、その人がその結果として作ったものを聴きたい」

 「音楽祭の将来に対して、どのように思われますか」という私の質問に対して、「過去にも現代音楽を取り入れたり、’現在と古楽との関わり’についてはずっと考えている。音楽祭もまた模索しているし、その模索はこれからも続くだろう」

 音楽祭には現在、「コンサート担当のディレクター」と「コンクール担当のディレクター」がいます。コンクール担当は、RDの息子で、若い時から音楽祭のスタッフとして働いてきたSD氏が担当します。

 コンクールで弾く曲は、受験者に選択を任せているものもあります。音楽祭開催の数週間前、既にコンサート事務局は、受験生から送られた彼らの受験曲のコピーで、足の踏み場もないないような状態です。始まったら始まったで、受験生からの、ありとあらゆる質問やお願い、苦情等・・カオスな舞台裏が2週間ほども続きます。その中で、どんなに心の中はパニックでも、決して外には出さず穏やかに問題を処理するSD氏を、我々はとても頼りにしています。

 
今年の、コンクールの結果発表と50周年のスピーチが行われた舞台で、日頃の感謝を込めて、SD氏に音楽祭事務局から記念品が渡されました。そして舞台終了後、毎年コンクール終了日にするように、この日もSD氏は舞台裏のドアの所に立ち、スタッフ一人一人に労いの言葉をかけました。聴衆の目にふれるスタッフの、何倍ものスタッフが舞台裏で働いています。


 スタッフの今年のTシャツ’祝50周年’

 半世紀を経て、来年は新しい半世紀を迎えます。人が関わるものは音楽祭も例外でなく、生き物のように変化していきます。ただ、どのように時代が変化しても、次の半世紀の最後の年を、今から50年前に願った「この小さな街が、世界中の古楽奏者の情報交換の場であり、刺激の場であれば」という思いを受け継いで迎えられたら、と願っています。


2013年7月31日(水)
シモン・アンタイ展とライオン

  時々、無性に絵が見たくなることがあり、今日は、ポンピドー・センターで開催されている「シモン・アンタイ展」に行ってきました。 

  シモン・アンタイは、1922年にハンガリーに生まれ、第2次大戦後、フランスに帰化し、2008年に亡くなりましたが、彼の初期のシュールレアリズムの時代から、「ecriture rose」という、哲学や詩を書いていた(遠くから見ると、絵のようですが、近づくと小さな文字が沢山書いてある)時代を経て、後期の抽象の時代へと、彼のスタイルが変容していく様を、130点の絵画で見ることの出来る、大回顧展です。  

  シモン・アンタイは、古楽界で活躍する「アンタイ三兄弟」のお父様です。会場の一画にあるブースの中で、アンタイへのインタビューや、彼の制作現場を映したフィルムを見ることが出来ます。インタビューの中で彼が語る、自然への思いや哲学、子供の頃の教会での音楽体験などは、とても興味深いものでした。 会見者と話す彼の傍らで、今は著名なチェンバリストになった三男が、クレヨンで画用紙に絵を書いている姿や、三兄弟が庭の木陰でリコーダー・アンサンブルをする姿は、とても微笑ましいものでした。 

  そして、ポンピドー・センターを出た後、すぐに現実社会に戻るのが惜しいような気がして、展覧会の余韻を持ったまま、セーヌを渡り、画廊が立ち並ぶ、オルセー美術館界隈に向かいました。 画廊を少し覘いた後、この付近に来ると時々覘く、日本の都会の真ん中ではお目にかかれないお店に足を運びました。 

 写真1

  「ぬいぐるみ? ちょっとリアルだけどかわいい!」(写真1) 違います。。
 ここは、なんと「はく製屋」さんです!(写真2) 


 写真2

  数か月前、始めて、この店を訪れた時、1階に置かれた高価そうな「園芸グッズ」を見て、興味も無かったので店を出ようとしたら、レジに座っていた、とても素敵な女性が、「あなた、面白いのは2階よ。見ていらっしゃい」と言うので、2階に上がって、この光景に出会いました。

 その時は驚きましたが、「そういえば、ライオンの鼻先や鬣(たてがみ)に触るチャンスなんて、過去になかった」と思い、ここぞとばかりに、ライオンに向かって手を伸ばしますが、頭で「これは、はく製」とわかっていても、目の前で見るライオンは、大きくて威圧感があり、このリアルな顔に向かって手を伸ばすのは、勇気がいりました。


 周りにいる人々も、私が、恐る恐る手を伸ばすものだから、私の緊張が移ったのか、し~んとして、空気が止まっています。触ったライオンの鬣は硬くて、野生の中で生きてきた強靭さを感じさせました。

  私がライオンと向かい合っていると、後ろから、何かが床をする音がするので、振り向いたら、先ほどレジにいた素敵な女性が、熊のお頭のついた毛皮を抱えて、立っていました。 目が点になって佇む私に、その女性は「可愛いでしょう? 一昨日出来てきたのよ」と熊を見ながら、愛おしそうに言いました。 

  歴史や生活習慣、そして言葉や文化。。。「違う」ということを共存することは、時に大変なことですが、日常の中で、思いもしないものに出会う時、楽しくなることもあります。

  都会の真ん中の、とあるパン屋の隣に「はく製屋」がある、そのような街もあるから、世界はおもしろくて、素敵なのかもしれません。 

 

2013年7月16日(火)
たかが「チョコ」、されど「チョコ」
  食べ物に、並々ならぬ愛情を持つ、フランス人・・ 
  チョコレートにも、深いこだわりを持っています。
  パリ中に、チョコレート屋が何軒あるのか知りませんが、ご近所にこれだけあるということは、パリの中だけでも、相当数あるのだろうと思います。 

  数えきれないチョコレートの種類、それぞれの店の味もあります。 伝統的なものもあれば、ラベンダーやタイムを入れたハーブ入りチョコや、胡椒などの香辛料が入った、変わったものもあります。 食べるだけじゃ飽き足りないのか、「チョコ香水」や「チョコ・エステ」もあります。

  その中で、今日は、私が選んだチョコレートを、皆様にご紹介したいと思います。
  これらのチョコレートは、それぞれ、世界中の、異なる原産地で取れたカカオで、作られています(写真1)。

 写真1

  スプーンとチョコの一石二鳥で作る「ホットチョコレート」用スプーンです(写真2)   

 写真2
 

  パーティ用「トンカチ付・板チョコ」もあります(もちろん、一人占めしたい人は、一人で食べてもOK)(写真3)

 写真3
 

  そして、美味しいだけじゃ満足しない’芸術の都’!  こういうのも作ってしまいました(写真4)。 

 写真4
 

  この左の大きな胸像は「モリエール」です。劇作家で、1664年ごろから王室でリュリと協働し、「町人貴族」等の作品を残しました。  天を見つめて、今も大志を抱いています。 リュリも探しましたが、いませんでした。 残念です。いたら買って食べたかも・・・

 
 写真5

  極めつけは、この「ワニ」(写真5) 成長しすぎたのか、棚の上から、体が3分の1ほどはみ出ていました。 全長、およそ1m30cmほどです。

  よく見ると、歯の1本1本まで精巧に作られていて、噛まれたら痛そうでした。思わず店員の女性に、「買われる方はいらっしゃいますか?」とお聞きしたら、「まあ、たま~に・・・」ということでした。

  「お値段は?」と聞いたら「グラムで決まるので、はっきりとはわかりませんが、大体1300ユーロ(今日のレートで169,000円)」とのことでした。

  私が、あまり熱心に、このワニを見つめていたからか、「日本への、お土産に如何ですか?」と聞かれましたが、 「日本は猛暑で、溶けると思うので、またの機会に・・」と丁重にお断りしました。  

  写真まで取らせて頂いたので、1m30cmのワニを見た後ではありますが、「横6cm・縦4cm」の箱に入った、小さな「キューブ型チョコ6個入り」を買って、家で食べたところ、あまりの美味しさにびっくり(!)しました。素晴らしいショコラティエです。きっと、あのワニもモリエールも美味しいと思います!

 

2013年7月9日(火)
マルシェ

  パリはヴァカンスが始まりかけていて、何となく街を歩いている人も「うきうき」しています。

  太陽も長い冬眠から目覚めたように、元気よく毎日顔を出してくれるのでそれも嬉しく、外国からの観光客は日増しに増えて皆さん楽しそうだし、加えて「ソルド(バーゲン)」なので、街の中は「るんるん」気分です。

  余談ですが、「ソルド」の初日、開店時間にデパートに行くと、店員が入口にずらりと並び、その手に持っている小さなクロワッサンと、紙コップに入ったコーヒーを客に渡しながら「頑張ってね!」と声をかけてくれます。「やる気」になります。。。 

  パリにいる「日曜日」の朝は、近くのマルシェに買い物に行きます。まず、マルシェの入り口近くにある「ハーブ屋」さんで、おばさんが、大きなプランターからハーブを切って、すぐにジューサーで絞ってくれる「生青汁」を飲むのが日課です。絞っている最中、おばさんとたわいもない話をします。そして、「昨晩は遅かったなら、生姜も入れておこうかね」とか言いながら作ってくれた、濃厚な青汁を飲むと目が覚めます。(写真1)

    写真1

 

  ベルギーでも見たことが無かった変わった野菜や果物も、パリでは見かけます。例えば、このトマト。(写真2)

 写真2

 名前を「牛の心臓」と言います。 トマトは私が知っているだけで12種類ほどあり、料理によって使い分けます。 

 そして、これは「桃」ですが、丸くなく平べったい形をしています。(写真3)

  写真3

 こちらの桃は皮ごと食べるので、この桃は果汁が滴る心配も無く、食べやすいです。

 

 この時期の私の好物の一つは「生のアーモンド」(写真4 右の籠手前)。



 アーモンドは真っ白で歯ごたえもよく、美味しいです。

 左の赤いセロリのようなものは「ルバーブ」です。砂糖と煮て、ジャムにしたり、ケーキに入れます。酸味があって植物繊維も豊富です。

 

  この時期は、美味しい手作りジャムやはちみつも店頭に並びます(写真5)

 

  マルシェを出た広場では、シャンソンを歌う女性の前で踊っている、数組のカップルがいました。このような光景をみると、「ヨーロッパに夏が来たなあ」と思います。

  

 

2013年6月26日(水)
Fete de la Musique (音楽の祭典)
  暑い日本から戻ってみると、パリはうす寒く、一日の中でも、晴れたり曇ったり雨も降って、時には雹や雷もあって、テレビの天気予報マークは「おし合いへし合い」状態です。今年のヨーロッパの天気はひどく、冬は長くて春は無く、100年前だったら、これが「飢饉」というものだっただろうと納得してしまう、不健康な天気です。
   「今、巷で流行ってるジョークがあるんだ」と友人が教えてくれました。そのジョークとは「老舗デパート’プランタン’がカタールに買収されたため春がこなかった」
  というものです。’プランタン(Printemps)とはフランス語で「春」の意味です。

  ところで、6月21日は夏至で、フランス全土で「音楽の祭典」の日でした。 
市内に役所が登録しただけで100以上のコンサートがあり、ルーブル美術館を始め、ホールや教会、カフェ、レストランや道で、プロもアマチュアも関係なく、そして、クラッシック、ジャズ、ポピュラー・・等のジャンルも問わない、全ての音楽のための日です。  街中にいろいろな種類の楽器を持った人が、沢山歩いているのを見るのも楽しいです。



 午前中に街を歩いていると、とある教会の前で、4~6歳くらいの子供たちのオーケストラのリハーサルに出会いました。 小さな小さな子供用のヴァイオリンを持った子供たちが一列に並んでいるのを見て、何をしているのかと思ったら、列の先に先生がいて、順番に楽器を調律してもらっていました。見ていて思わず微笑んでしまいました。「音楽の祭典」は彼らのような音楽を習っている子供たちにとっても、その成果を発表する大切な日です。夕方から始まった「祭典」は真夜中過ぎまで続きました。

  この日の音楽のエネルギーで、夏らしい天気がやってくるといいのですが・・・

 

 

2013年6月4日(火)
東京のコンサート

 日本に帰ってきました。  日にちが近づいてしまいましたが、東京でのコンサートのご案内をさせて頂きたいと思います。
  最初のコンサートは67日、モダンフルートの清水理恵さんのリサイタルです。私達は大学時代からの友人で、彼女は大学卒業後、アメリカ・ボストンで研鑽を積みました。クラシックだけでなく、現代音楽のスペシャリストでもあります。現代までの広いレパートリーをこなす彼女と「バッハと息子たち」の時代を一緒に見つめるのは、とても刺激的な作業です。

清水理恵 フルートリサイタル  ~バッハ:無伴奏チェロ組曲に魅せられて~ 
                          <
2    チェンバロとの対話>

日時: 67 () 19:00開演 (18:30開場)
場所: 東京オペラシティ  3F 近江楽堂
チケット: 3000円(一般2500円(会員)
ご予約・お問い合わせ:03-3905-0264

C.Ph.E.
バッハ  ソナタ ハ長調    Wq:149 (フルートとオブリガートチェンバロ)
J.S.
バッハ        ソナタト長調.    BWV: 525(フルートとオブリガートチェンバロ)
J.S.
バッハ        チェロ組曲 2番 ニ短調  BWV:1005(フルート・ソロ)         
                                             

そして、二つ目は618日。リコーダーの本村睦幸さんとの共演です。このコンサートではピッチをa'=405 で演奏予定です。現代は便宜的にフランスバロックをa'=392でやることが多いですが、ヴェルサイユの室内楽ピッチは、それより4分の1ほど高かったようです。そして、405あたりのピッチだと多くのリコーダーの音色がひときわ魅力的になります。  チェンバロソロは、私のリリース予定のCD「ラモークラヴサン曲集」から何曲か、小品を弾かせて頂きます。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

リコーダーとチェンバロによる小さな室内楽

 
本村睦幸(リコーダー)
 
三和睦子(チェンバロ)

  2013
年6月18日[火]
 
F・音楽室
 
(渋谷区千駄ヶ谷 2-10-1 木島ANEX 3階/外階段のある建物を3階まで上がってください)

  2
回公演
  14:30
開演 (14:00開場)
  19:15
開演 (18:30開場)


  J.-P.
ラモー: クラヴサン曲集より
  三連音,未開人,ロンド形式のミュゼット,タンブーラン
  J.
オトテール: 組曲ソナタ 作品5の3
  J. C.
ノード: ソナタ ハ短調
  J. B. de
ボワモルティエ: 組曲 作品35の6
  A. D.-
フィリドール: リコーダー ソナタ


 
各回24席限定
  3,500



ご予約・お問い合わせ
デ・ルストホフ Tel&Fax: 045-981-3752
  E
メール:lusthof.concerts@gmail.com


2013年5月28日(火)
ゲント
ゲント市街地

  ベルギー・ワロン地方に仕事で滞在している合間をぬって、久しぶりに我が故郷、ゲントに半日だけ出かけました。


  この日は生憎の雨でしたが、雲の立ち込めたベルギーらしい天候に、懐かしさもひとしおです。

  まず、コンセルヴァトワールに行って元同僚達と食事をした後、今年の山梨古楽コンクールで、審査員として来日されたツェーガー・ヴァンデルステーネ氏からお茶のお招きを頂いていたので、久しぶりにお宅にお邪魔して、日本の土産話を聞きました。 

  ゲント市はブリュッセルとブリュージュの間に位置して、オランダ語の方言を話す「フランドル地方」にあります。

  人口23万人の小都市ですが、コレギウム・ヴォカーレ・ゲントの本拠地であり、その指揮者のヘレヴェッヘ氏やバロックオペラ界の巨匠、ルネ・ヤーコプス氏の故郷であり、今もベルギー人古楽奏者が多く住む、文化都市です。私はここに10年以上も暮らしていました。

  コンセルヴァトワールの建物は古く、1400年代に建てられました。今年に入って建物の外壁を洗ったので、迫力が減りましたが、以前は畏怖を感じるような重い色をしていました。ベルギーのコンセルヴァトワールにはクラッシック科とジャズ科を併設しているところが多くあります。私は留学してからジャズを知り、ベルギー人の古楽仲間の影響を受けて、バロック以降の音楽やクラッシック以外の音楽を多く知りました。留学当時、彼らの知識の幅広さには驚かされたものです。コンセルヴァトワールと、一般大学の法律科や数学科と兼ねて学んでいる友人もいたので、日本の音大生との違いにも驚きました。そして、ゲントのコンセルヴァトワールには国内で雄一の「楽器製作科」があります。入学当時は柔い音楽学生の中で、マッチョで頭に鉢巻をした彼らは学校でも浮いて見えましたが、仲良くなると楽しくて、楽器が出来上がる過程を見に、度々部屋にお邪魔しました。このクラスは年齢制限を設けてなく、脱サラしてきた人もいました。苦労して出来上がった楽器で始めて音楽を奏でた瞬間を、今も覚えています。

 ゲント・コンセルヴァトワール(右中央、灰色の建物) 

  留学時代は、ベルギー人のお家にホームステイをしていましたが、後に働くようになってから、一人暮らしを始めました。アパートはコンセルヴァトワールから歩いて10分ほどのところにある、大きなワンルームでした。引っ越したあくる日、洗面所で身支度を整えていると、水道管を伝ってか、ア・カペラのCDが下の階から聞こえてきます。

  「朝から、なんて穏やかな。。」と思いながら、「階下は音楽好きな人なのかもしれない」と思うにとどまりましたが、次の日からも洗面所に行くと、いつも階下からア・カペラが聞こえてきます。演奏もとても良くて、こちらも興味を持って「もしや、この演奏はコレギウム・ヴォカーレ・ゲント? 地元だし、熱狂的なファンがいるんだろう」などと思っていました。ある日のこと、この話をコンセルヴァトワールで同僚達にしたら、皆一瞬、顔を見合わせた後、爆笑して「ムツコ、知らなかったの?あなたの階下は、コレギウム・ヴォカーレ・ゲントの事務局よ!」と言うので、びっくりしました。

  この建物は変わった構造になっていて、私のアパートの入り口は大通りに面していましたが、その通りから建物沿いに角を曲がった側は細い道に沿っていて、そこにも別の入り口がありました。コレギウムの事務局はこの入り口から入るので、住所は細い道の住所になります。それで気付かなかったのです。

  私が同じ建物に住んでることがわかると、コレギウムで弾いている友人たちが、事務局に行った後、我が家を訪ねてくることが多くなりました。ちなみに、私のアパートはフツーのアパートでしたが、階下の事務局はルネ・ヤーコプスのご家族のお一人で建築家がデザインされた美しい部屋でした。 

  私の部屋が通りに面していたため、部屋に電気がついているのがわかるらしく、夜10時(アパートでは夜10時まで練習が出来る)を過ぎると、コンサートを終えてゲントに帰ってきた友人や、近くにあるレストラン街で食事を終えた友人達が寄って来るようになりました。留学時代もそうでしたが、よく弾き、よく話し、よく食べました。夜のゲントは美しく治安も悪くなかったので、夕飯の後、よく皆で散歩に行きました。ただひたすら、当てもなく歩いて話しました。今から思うと、何をそんなに話すことがあったのかと思うほど、話題は尽きませんでした。

  街では、勝手口の鍵がかかっていない家も多く、夏になると、多くの人が小さなテーブルを道に出して、本を読んだりお茶を飲んで、その傍では子供達が宿題をしていることもありました。知り合いに会うと挨拶をして、時々、その小さなテーブルで一緒にお茶を飲みました。ゲントでの生活はなんとも濃厚な「長屋的生活」でした。

 

バーフス大聖堂(ファン・エイク兄弟作 ‘神秘の子羊‘がある教会。ヤーコブス氏やヘレヴェッヘ氏も子供時代に教会の聖歌隊で歌っていました)


 


2013年5月15日(水)
レオンハルト氏と彼の楽器

  先日、あるチェンバリストのお宅で、レオンハルト氏が所蔵していた楽器に会いました。去年の秋に彼の何台かの楽器が、数人の元弟子達の所に引き取られた中の一台です。そのチェンバリストが弾いてくれた瞬間、感動で体が震えました。楽器の素晴らしさもさることながら、楽器からまだレオンハルト氏の音がしたからです。その時、私の周りの時間が彼の最後のコンサートを聴いた、2011年の冬に戻って行くのを感じました。その冬、私は偶然にもパリで彼の最後のコンサートを聴き、一ヶ月後には彼のお葬式にも参列したのです。 

  1212日のパリでのコンサートが最後になることを、彼の身近な人達は知らされていました。私もこの日は朝から落ち着かず、一日中コンサートが無事に行われることを願っていました。 そして、そのコンサートは素晴らしいものでした。 淡々としながら情熱的で暖かく、王道をいくものでした。偉大な音楽家は人生の終わりにこのような演奏をされるものかと思いました。 そして信じられないことに、アンコールまで弾かれました。体力的に限界だったのか、 アンコールの後、なかなか立ち上がることが出来ず、最前列に座っていた調律師が助けようと、腰を浮かした瞬間に、ようやく楽器の縁に手をかけて立たれました。それでもしっかりと背を伸ばして一礼されたあと、ゆっくりと舞台を去られました。聴衆の拍手は続きましたが、二度と舞台に現れることはありませんでした。

 優れた楽器というのは、弾き手を記憶します。私がそのチェンバリストの家で聴いた楽器も、彼(楽器)を愛し、共に音楽を作り上げてきた彼の盟友を覚えていました。 これからこの楽器は、新しい奏者のところでこれからの日々を過ごし、彼の音を覚え、また遠い将来次の奏者のところに行くかもしれません。私達の人生は短いですが、楽器はこれからも生きて、次の世代に何かを伝えてくれるような気がします。

  この楽器を聴いた日、久しぶりにレオンハルト氏と話したような気がしました。

 

2013年5月1日(水)
すずらんの日

   数週間ぶりにパリに帰ってきました。帰ってきた次の日の夕方、親友から電話があり、「見たい映画があるけど、一緒に行かない?そのあと積もる話をしよう」というわけで、彼女の家の近くの映画館に行きました。フランス人に映画好きは多く、例にもれず彼女も、そして私も映画は大好きです。

  向かったのは、私たちのお気に入り、サン・マルタン運河の両岸にある映画館です。向かって手前に映画館と映画関係のブティックがあり、運河を挟んだ向こう岸に映画館とカフェがあり、その両岸を行き来するのは手前に見える小さな船です。夜になると船に色とりどりの電球がついて、映画「アメリ」の世界を彷彿とさせます。しかし、見た映画は、骨太な哲学者「ハンナ・アレント」の話。。

 映画の後カフェに行き、話し込んだ後、夜も遅いので、そこから歩いて帰れる彼女の家に泊まり、次の日の朝、近くのパン屋で買った、まだ温かいバゲットを食べたら、完全に気持ちがパリ生活に戻りました。


 そして、今日は5月1日。「メーデー」であり「すずらんの日」です。 

 すずらんは春を告げる花で、「幸せをもたらす花」と言われています。お世話になった人や、家族、恋人、友人と幸せをもたらす、すずらんを贈りあう日です。今日は花屋から100m離れたら、どこで誰がすずらんを売ってもよいことになっているので、花屋さんだけでなく、道の至る所に小さな露店がたちます。おばさんの持つ買い物袋からのぞくすずらんの花。バゲットと新聞を小脇に抱えた男性の手にもすずらん、乳母車の赤ちゃんの傍らにも・・

 街中にすずらんの香りがします。

 

 

 

  

2013年4月12日(金)
パリの生活

  パリのアパートには、まるで「当たり前」のように、いろいろと問題があります。水が漏るとか、停電するとか、いろいろと・・

  今のアパートに越してチェンバロを搬入した時、楽器の尻尾の方の足が床から浮いているのを見て「楽器が反ってる!」とパニックになったら、搬入を手伝ってくれた友人が「違うよ。床が斜めなんだよ」と言うので、「どうしてわかるの?」と聞いたら、「ここじゃよくあることさ。僕の家もそうだよ」と落ち着いて言うので、驚きました。
  同じ頃、洗濯機の電源が入らなくて電気屋を呼んだら「暖房と同じ線を使っていて、電圧が低いため、同時使用は無理で、片方ずつしか使えない」と言われ、思わず(零下の続く冬だったので)「洗濯してる時に凍死したらどうするの!」と半分は冗談ながら、半分は本気で文句を言ってしまいました。 

  不思議なのは、文句ったれのフランス人達が、何故、このような不便さに怒りながらも、改善を目指さないのか・・これは私にとっては「永遠の謎」です。

  留学した1年目は、日曜になると閉まる店々に驚き、日本のコンビニを懐かしみましたが、今は慣れて「日曜とは、こういうものだ」と思うようになりました。 

  いつか私も、水漏れや停電や、床から距離のある楽器の足を見ても、驚かなくなる日が来るのでしょうか・・その想像は・・ちょっとこわいです・・

2013年 3月27日(水)
睦子のパリ便り 第1回

 こんにちは。チェンバロの三和睦子 (みわ むつこ  )です。
   日本は桜が満開となったようですが、皆様、お元気でお過ごしでしょうか? 
 「パリ便り」の1回目は、この「便り」を書いている私の街の辺りから、お話を始めてみたいと思います。
  
 
 私の住んでいるところは、パリ6区内の(地図で見ると)ど真ん中!・・・からちょっと下。
 歩いて30秒で、パリ市民憩いの場所「リュクサンブール公園」に辿りつきます。その公園のお隣は「セナ」(上院)。リュクサンブール公園から北に歩くと、ダビンチコードで有名になった「サンシュルピス教会」(下の写真)があり、その前の広場をそのまま真直ぐ行くと、サンジェルマン・デ・プレ、広場を右に向かうと、オデオン、そしてカルチェラタンの中心となるソルボンヌ大学やパンテオン周辺に出ます。
 

  公園から南に行くと、昔ピカソやマン・レイ、藤田嗣治らが集まったカフェ「ロトンド」や「ドーム」のあるモンパルナス界隈に入ります。

  パリには昔から多くの芸術家をはじめ、小説家、詩人、俳優・・あらゆるジャンルの人々が集まってきました。 街を歩くと、通りの至る所に彼らが生きた息吹きを、今も感じることが出来ます。  

  そして現在、その街で生活する人々は、というと・・長い歴史の街に暮らす人特有の保守的なところを土台としながら、斬新なものへの憧れもあり、規則を作るのは大好きだけど、破るのも大好きで、論理的思考を愛しながら、感情的、という多重人格的な人々。それに加えて、パリ在住の外人達の、雑多な国籍から生じる意識の多様さが、パリ人間社会の「カオス」に色を添えています。

 というわけで、今の私が生活しているパリ。そして作品や人生を通して、今も我々に語りかけてくる、パリに生きた先人たち・・・文化、芸術から街のニュース、グルメもおり混ぜて、「何でもあり!のパリ便り」をこれから皆様に発信して行きたいと思います。



 


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